南北戦争4
出典: Jinkawiki
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南北戦争の開戦理由
南北戦争はアメリカ合衆国の南部と北部での内戦である。1861年から1865年までの5年間かかった。そして両軍合わせて62万人以上の死者をだした。アメリカ合衆国史上最大の戦死者数を記録した。 南北戦争の原因は、西方の新しい領土に成立していく新規諸州を、奴隷州にするか自由州(奴隷を認めない州)にするかで、南北間の勢力争いがうまれて、国家が南北に分裂したことである。 北部諸州では、イギリスの産業革命に刺激されて工業が盛んとなり、工業地帯が作られていった。商工業者が多く、先進的で自由な気風を好む性格が形成された。南部諸州は農業が主であり、大農場で黒人の奴隷労働力によって綿花栽培がおこなわれ、保守的な性格が強い。そして地域共同体に密着した雰囲気を色濃く持っていた。そして農場主は奴隷を使って天候貴族のような生活をおくったが、これはアメリカ憲法の万民平等思想とは間逆であった。1930年代にこの差異から生じる対立がエスカレートして、南北で主張の食い違う経済政策、奴隷制を法律で容認するか否か、奴隷州と自由州の数の均衡問題など多くの問題があった。北部の人の多くは奴隷制が悪だと考えていたが、それはただちに武力行使を意味するのではなく、のちに大統領になり奴隷解放宣言を発布するリンカンも、即時奴隷廃止などということを考えていたのではなかった。むしろアメリカ合衆国が二つに分かれるのを見るくらいなら、奴隷制を容認したほうがましと思っていたのだ。 しかし、南部の人々は対立により不安が高まり、冷静な判断ができなくなっていた。北部の世論は南部を非難し、ついには武力まで使いつつあった。1960年11月6日の大統領選挙で、奴隷制廃止を掲げるリンカンが当選を果たした。それを見た南部の7州は連合を離脱し、南部連合を結成した。しかし、これは北部の人とリンカンにとっては許しがたいことだった。1861年3月4日、リンカン大統領の正式就任を迎え、状況は一触触発だった。ここから5年間に及ぶ南北戦争がはじまったのである。
西への前進と東の膠着状態
北軍は、東部における敗北とは対照的に、西部での戦闘では勝利を収め、海上でも徐々に戦略を成功させた。南北戦争初期には、海軍のほぼ北軍の手中にあったが、各地に分散しており、弱体だった。ギディオン・ウェルズ海軍長官は、直ちに海軍強化の措置を取った。そしてリンカンは、南部の海岸の封鎖を宣言した。初めは封鎖の効果はほとんどなかったが、1863年までには、ヨーロッパへの綿花輸出をほぼ完全に停止させ、南部がどうしても必要としていた軍需品、衣服、および医療品の輸入を阻むまでになった。 北軍の優秀な海軍提督デービッド・ファラガットは、2度にわたって目覚ましい作戦を展開した。1862年4月、彼の率いる艦隊がミシシッピ川の河口に入り、南部最大の都市であったルイジアナ州ニューオーリンズ市を攻略した。そして、1864年8月に、「魚雷など気にするな。全速力で前進しろ」と命令し、アラバマ州モービル湾入り口の強力な防備を突破し、南軍の装甲艦を捕獲して、港を封鎖した。 ミシシッピ渓谷では、北軍がほとんど連戦連勝していた。まずテネシー州で、南軍の長い戦列を分断することで、同州西部をほとんどすべて占拠した。ミシシッピ川の重要な港であるメンフィスを攻略した北軍は、南部連合の中心部へ約320キロメートル前進した。粘り強いユリシーズ・S・グラント将軍の率いる北軍は、シャイロのテネシー川を見下ろす断崖の上で、南軍の突然の反撃にあったが持ちこたえた。シャイロの戦いでは、北軍と南軍の死傷者がそれぞれ1万人を超え、それまでの米国史上最大の死傷率となった。しかし、大量の殺りくは始まったばかりだった。 これに対し、バージニア州では、北軍は南部連合の首都リッチモンドの攻略を何度も試みたが、激しい戦闘で敗北を続けた。南軍は、ワシントンとリッチモンドの間の道路を分断する多くの川によって、強力な防衛陣地を築くことができた。南軍の最も優秀な2人の将軍、ロバート・E・リーとトーマス・J・ジャクソンは、いずれも初期の北軍の将軍たちに比べ、はるかに優れていた。1862年に、北軍の司令官ジョージ・マクレランは、リッチモンドを占拠すべく、ゆっくりと慎重すぎるペースで攻撃を試みた。しかし、6月25日から7月1日までの7日間の戦闘で、北軍は徐々に後退を余儀なくされ、両軍とも多大な損失を被った。 北軍と南軍は1862年9月17日にアンティータム川で交戦した。この戦いは、南北戦争で一日に最も多くの死傷者を出した戦いとなり、双方で4000人以上が戦死して、負傷者は1万8千人にのぼった。この戦いの後でリンカンはマクレランを解任した。アンティータムでは軍事的な決着はつかなかったが、その戦いの影響は多大だった。南部連合を承認しようとしていた英国とフランスが、その決断を先延ばしにし、南部連合は切実に求めていたヨーロッパによる外交的承認と経済援助を得ることができなかった。そして、アンティータムは、リンカンに予備的な奴隷解放宣言を発表する機会を与えた。これは、1863年1月1日をもって連邦に氾濫する全ての週の奴隷は自由であると宣言するものだった。実際的には、この宣言はほとんど直接的な影響を及ぼさなかった。これは南部連合諸州のみの奴隷を解放するもので、境界州の奴隷はそのままだった。しかし、政治的には北軍の戦争の目的として、連邦の維持に加えて奴隷制廃止を掲げる、という意味をもつものであった。 1863年1月1日に発表された最終的な奴隷解放宣言は、北軍がアフリカ系米国人を募集することをも承認していた。これは、フレデリック・ダグラスをはじめとする奴隷解放運動の指導者たちが、武力紛争の当初から要求していたことであった。北軍はすでに脱走奴隷を「戦時禁制品」としてかくまっていたが、奴隷解放宣言後、北軍はアフリカ系米国人兵士を募集・訓練し、こうしたアフリカ系米国人の連隊は、バージニア州からミシシッピ川まで各地の戦闘で手柄を立てた。約17万8000人のアフリカ系米国人が合衆国有色人種部隊に入り、また2万9500人が北軍の海軍に入隊した。しかしながら、奴隷解放宣言による政治的な前進にもかかわらず、東部における北軍の軍事的な展望は引き続き思わしくなく、リー将軍の北バージニア軍は、まず1862年12月にバージニア州フレデリックスバーグで、続いて1863年5月にはチャンセラーズビルで、ポトマック川沿いの戦いにおいて北軍を打破し続けた。しかし、チャンセラーズビルの戦いは、リーの最も華々しい勝利のひとつであると同時に、最も大きな犠牲を出した戦いのひとつでもあった。この戦いで、リーにとって最も貴重な副官であった「ストーンウォール」ジャクソン将軍が、味方の銃弾によって戦死したのである。
ゲティスバーグからアポマトックスへ
南軍の勝利はいずれも決定的なものではなかった。北軍は毎回軍勢を立て直し、再度挑戦した。リーは、チャンセラーズビルで北軍に大勝したことで機会をとらえたと考え、1863年7月初めに北へ進軍してペンシルバニア州に入り、州都ハリスバーグ市に迫った。しかし、強力な北軍の部隊がゲティスバーグ市でリーの軍勢を迎え撃ち、南北戦争で最大の戦闘となる3日間に及ぶ大激戦が展開された。南軍は北軍の戦列を打ち破るべく勇敢に戦ったが敗れ、壊滅的な打撃を受けたリーの軍隊は、7月4日ポトマック川を渡って後退した。 この戦いで、北軍の戦死者数は3000人以上、南軍は4000人近く、また負傷者・行方不明者の合計は南北でそれぞれ2万人を超えた。 ビックスバーク、そして1863年7月のゲティスバーグにおける北軍の勝利は、南北戦争の転換点となったが、その後も1年半以上にわたって激しい流血の戦いが全面的に継続した。1864年5月、グラントはバージニア州内に深く前進し、リー将軍の率いる南軍との間で、3日間にわたるウィルダネスの戦いが展開された。双方共に多大な損害を被ったが、他の北軍の司令官らと異なり、グラントは撤退を拒否した。彼は、砲撃と歩兵攻撃を続けることによって、南軍の戦列を分散させようとした。ほぼ1年間に及ぶ東部戦線での戦いを象徴するような5日間の激しい塹壕戦が行われたスポットシルバニアで、グラントは、「私は、ひと夏かかったとしても、この戦線で戦い続ける」と宣言した。 西では、1863年の秋も、北軍がチャタヌガおよびその近くのルックアウト・マウンテンにおける戦闘で勝利を収めてテネシー州を支配下に置き、ウィリアム・T・シャーマン将軍によるジョージア州侵攻への道を切り開いた。シャーマンは、いくつかの小規模な南軍部隊を打破し、ジョージア州の州都アトランタを占領した後、大西洋岸へ向かって進軍し、その途上で組織的に鉄道・工場・倉庫・その他の施設を破壊していった。シャーマンの部隊では通常の物資の補給が途絶えていたために、兵士たちは進軍途上の各地で食料をあさった。大西洋岸に到達すると、シャーマンはそこから北へ向かい、1865年2月までにはサウスカロライナ州チャールストン市を占領した。チャールストンは、南北戦争開戦のきっかけとなった砲撃の行われたところであった。シャーマンは、南軍に勝つためには、南軍の意欲と士気をくじくことが、戦闘に勝つことと同様に重要であることを、北軍の他のどの将軍よりも良く理解していた。 一方、グラント将軍は、バージニア州ピーターズバーグ市を9カ月間にわたって包囲した。1865年3月には、リー将軍がピーターズバーグと南部連合の首都リッチモンドの両市を放棄して、南へ後退しなければならないと判断した。しかし、1865年4月9日に大勢の北軍に包囲されたリーは、アポマトックス・コートハウスでグラント将軍に降伏した。その後も数カ月間にわたって各地で戦闘が散発したが、南北戦争はこれをもって終結した。
参照 http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-ushist7.html http://dsssm.yukihotaru.com/sonotarekishi/cvilwar.htm