湾岸戦争9
出典: Jinkawiki
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湾岸戦争
1991年、フセイン大統領率いるイラク軍が、隣の石油大国クウェートを攻撃し、占領した。イラクはイギリス領メソポタミアと呼ばれていた時代にはクウェートとの境界線などはなく、ただ独立する年代の違いによってイラクとクウェートに分割されたという背景があった。以前から、クウェートはイラク領と主張していたイラクは、クウェートは元持ち主に戻ったのだと世界に訴えたが、クウェートに多くの石油権益を持っていた欧米諸国はただちにイラク攻撃を前提に行動を開始した。 1979年、イラクの隣国イラン(ペルシャ)で革命が起こり、欧米諸国からの援助で国家の近代化をはかり、その結果国内の不平等を拡大させたパフレヴィー国王が国民の反発にあって失脚し、パリに亡命していたイスラム教シーア派の指導者ホメイニ師を首班とするイスラム体制が樹立されていた。 イラクは1981年からこのイランとの全面戦争を戦っており、アメリカを「大悪魔」と呼ぶホメイニ師と戦うフセイン大統領にはアメリカなどの西側諸国の援助が殺到し、イラクは中東随一の軍事大国に成長した。このように、イラクと西側諸国との関係は良好だったことから、フセインは、たとえイラクがクウェートを併合しても欧米は黙認するのではないか、という見通しを抱いていたと思われている。 ところが、アメリカの思惑を大きく超えて軍事的に強大化したイラクはむしろアメリカの邪魔となったために、アメリカはこの機会にフセイン政権を瓦解させようとした。イラクがクウェートを占領したのは1990年で、それから湾岸戦争勃発までには1年近い期間があり、その間にソ連・フランス・国連による和平仲介案が出された。アメリカ政府はそれらをすべて蹴った。 イラクが軍事的に強大になりすぎ、中東の軍事バランスが崩れることを心配したサウジアラビア、シリアなどのアラブ諸国も、侵略を犯したイラクを懲罰するという大義名分のもとに欧米に同調して、イラクは世界の孤児となってしまった。イラクは「わが国がクウェートから撤退するときは、同じく不法にパレスチナを占拠しているイスラエルがその入植地から撤退したときだ」と主張し、反米の気持ちの強いアラブ市民の広い共感を得て、さらにイスラエルの不法占拠を世界に知らしめる結果となった。 イラクは、イスラエルに対してスカッド・ミサイルで攻撃をかけるという奇手で欧米・アラブ連合に対抗しようとした。イスラエルが戦争に参加すれば、イスラエルをとても嫌うアラブ国家が自国に味方すると考えた。これにはアメリカも参り、ブッシュ大統領が必死にイスラエル政府を説得し、アメリカ・イスラエル首脳会談で「いつまでもイスラエルが黙っていると思うな」という一言が飛び出すほどのやり取りの末、イスラエルは報復を手控えた。 結局イラク軍といえども最新兵器を誇るアメリカ軍の攻撃の前ではどうすることもできず、1991年に湾岸戦争が勃 発、開戦後わずか2時間でイラクは継戦能力を喪失してしまった。
湾岸戦争症候群
湾岸戦争帰還兵たちの一連の症状を指すものを「湾岸戦争症候群」という。病状がひどく、働けなくなる、自殺を図ったものもいる。倦怠感や関節痛、皮膚の痛み、記憶の喪失など症状はさまざまだが、政府はこれを心理的なものだとした。 戦場では、様々な化学兵器や生物兵器が使用されることを想定して、それを防ぐ対策が取られた。多くの兵士は、生物兵器に使用されるタンソ菌とボツリヌス菌に対する予防接種を受けた。中には神経ガスの被害を予防する錠剤を与えられた兵士もいた。これらの接種については、兵士に何も知らされなかった。 油性の火災で吐き出された有毒ガスや、原油にまみれた環境も兵士たちの健康をむしばんだ。風土病にかかった兵士もいる。血液検査によってベンジンのような、そもそも体内にはあるはずのない物質が検出された兵士もいる。どの物質も石油からできたものであった。 湾岸戦争症候群のもうひとつの大きな要因と考えられているのが「劣化ウラン」である。天然ウランから濃縮ウランを作った残りの物質、いわば核産業の廃棄物である。これは非常に硬く、砲弾を強化するのに使われた。これが危険な物質であることは兵士たちに一切知らされていなかった。劣化ウランは、通常の状態なら害はなく、衝撃を受けると有害なチリを撒き散らす。それを吸い込むと、肺や腎臓に傷がついてしまう。 参照 http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6063/wangan1.htm http://teraken.gooside.com/wangansensoushokogun040204.html