パレスチナ問題6
出典: Jinkawiki
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一つの領土に、二つの国家を建設するためには,三つの選択肢が存在する。第一には共存であり、第二には一方が他者を外部へ追いやることであり、そして第三には一方が他者を内部に残したまま占領下に置くことである。パレスチナ問題は第二、第三の状況に置かれた領土問題である。1948年の第一次中東戦争の結果、多くのパレスチナ人が難民化し、西岸、ガザ、あるいは近隣アラブ諸国などに逃れた。さらに1967年の第三次中東戦争以降、西岸、ガザのパレスチナ人はイスラエルの占領を受けている。西岸、ガザを占領してきた事実は、最近ではイスラエル政府の右派勢力でさえこれを公に認めている。占領はパレスチナ人の土地のみならず、彼らの人権をも奪う。そのため、パレスチナ人にとって占領への抵抗は、奪われた権利の回復であり、正義を実現するための正当な自己防衛となる。他方、イスラエルの追及するものは安全であり、これは永らくパレスチナの占領を正当化する論拠とされてきた。 パレスチナ問題の構造とは、パレスチナ人の正義とユダヤ人の安全という、必ずしも対立しないように見える二つの価値が真正面から対立している点に集約される。しかしながら、現状は、ユダヤ人の安全とはパレスチナ人の正義を侵食することにより成立している。さらに両者の関係は、イスラエルが主権国家であるのに対し、パレスチナは未だ領土を確定されていない暫定自治政府であり、両者の国力および国際的な地位は非対称な関係にある。さらにパレスチナ問題は、単なる二国間問題や局地的な紛争に止まらず、中東地域、アラブ社会あるいはイスラム社会全体に影響をおよぼすグローバルな要素も兼ね備えている。
問題の起源
パレスチナ問題の起源は、19世紀末に始まるシオニズム運動とそれにともなうユダヤ移民の急激な流入や、さらにはバルフォア宣言によるユダヤ人国家建設の確約に端を発する。実際、両者の衝突はユダヤ移民の急増に伴い1920年代に激化したが、それ以前のオスマン帝国ではミッレト制度という宗教共同体のなかで共生、共存していた。しばしばパレスチナ問題について数千年来の対立の歴史という類いの表現を目にするが、こうした誤った歴史認識は問題の本質を曖昧にし、解決に至る道のりの遠大さを強調する危険性を孕んでいる。
問題の核心
パレスチナ問題の争点は、具体的には最終的地位問題と呼ばれているものに集約される。難民は人の問題であるが、エルサレム、入植地は土地の問題である。なかでもエルサレムは、ユダヤ人社会、イスラム社会、キリスト教社会に関わるグローバルな問題としての側面を持つ。また、地域的には難民は現在のイスラエル領土を含む土地の問題であるが、入植地は西岸とガザという占領地の問題である。加えて、発生した歴史的経緯も、難民の起源は1948年の第一次中東戦争であるのに対し、エルサレムと入植地の起源は1967年6月の第三次中東戦争である。
1967年以前のパレスチナ問題の解決策とは、イスラエル領土を含む「パレスチナ」の開放であり、これは難民の帰還に直結した。しかしながら、第三次中東戦争という地滑りにより、難民問題の地層の上に、占領地問題の地層が覆いかぶさり、パレスチナ問題は二重構造を帯びることとなった。そのため、パレスチナは難民問題への取り組みはもちろんのこと、それ以前の急務の課題としてイスラエルの占領という眼前の問題の解決に迫られることとなった。これを端的に示したものが1974年にPLOが提示したミニ・パレスチナ国家案であり、これは従来のスタンスに比べて大きく譲歩している。1993年から開始されたオスロ交渉でも、この方針を基本的に踏襲している。最終的地位問題のなかでも難民問題の占める位置は微妙であり、双方の主張の乖離は著しいが、それはこうした歴史的な背景と深く関係している。shuto
参考著書
「パレスチナ 戦争と最終的地位問題の歴史」ミネルヴァ書房 阿部俊哉
「パレスチナ」文藝春秋 芝生瑞和
「さくさくわかるパレスチナ問題」https://www.youtube.com/watch?v=IH5E9Lh7090