ヴェトナム戦争と冷戦
出典: Jinkawiki
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インドシナ戦争
ベトナム戦争はここから始まった。1945年8月、ポツダム宣言を受諾した日本の降伏で第二次世界大戦は終了した。同年9月にホー・チ・ミンはヴェトナム民主共和国の独立を宣言し、同時に大統領に就任した。しかしフランスはこれを認めずヴェトナムの再植民地化をはかるための作戦に乗り出し、軍を派遣したため、ホー・チ・ミンはねばり強く交渉した。結果、独立を認めさせることができた。1946年、ヴェトナム南部にコーシチナ共和国を樹立し、両者間の溝は深まり、全面対決に発展する。これが今後7年間続くインドシナ戦争である。アメリカはフランスに対する軍事給与を始めた。1954年フランス軍の要塞ディエンビエンフーが陥落すると、ジュネーブでの停戦協定が始まり、北緯17度線で南北ヴェトナムを分断することになる。これにより、北ヴェトナムと南ヴェトナム共和国という2つのヴェトナム国家が誕生することになる。ホー・チ・ミンの必死な交渉により独立が認められたが、交渉は決裂したため、ホー・チ・ミンは抗戦を訴えた。この戦いはヴェトナム軍がゲリラ戦で勝利し、ジュネーブ協定が締結されて80年間続いたフランスのインドシナ支配は終わったのである。
以上のことをふまえ、以下に私の考えを述べていこうと思う。フランスの支配を受け続けて生きていくことはかなり辛かったであろう。多くの植民地がそうであったように、フランスはインドシナに自国文化の強制をし、農民から農地を奪い、フランス人がそがりたれを管理運営する、ヨーロッパの農園方式を確立させた。農園ではゴムなどが栽培されたが、農民の扱いは過酷を極め、安い労働力による生産は多くのフランス人に莫大な富をもたらした。やがてヨーロッパでは第一次世界大戦が始まり,フランス植民地軍として多くのヴェトナム人が戦争にかり出されたこともあった。私はこのような事実を始めて知った。ホー・チ・ミンは多くの犠牲者がでるとわかっていたが、抗戦に臨んだのだろう。それほどフランスからの支配が辛かったということがわかる。戦争も体験したことがないということは本当に幸せなことであると思う。だからこそ、戦争も支配もなくなってほしい。そのためにも、戦争の引き金となる人間の支配はなくなるべきである。私はまず、他人を支配したがる人間の心理に悲しみをおぼえる。なぜ人は他人を支配したがり、人の上に立ちたいと思うのだろうか。確かに試験やスポーツで他人に負けたくないという気持ちはあると思うが、自分の利益のために人を使おうとは思わない。そこが当時と今の違いである。当時の人々は他人を支配することで自分の地位があがるという考え方をしていたのだろう。そのためお互いが支配しあおうと戦争におよんでしまったのである。強者が弱者を支配する、当時はそれが当たり前であったのかもしれないが、現代は強者は弱者を守る時代になってきていると思う。この考え方の変化も、これら様々な戦争などの歴史があるためであると思う。このフランスのように支配をしなければゲリラ戦なども起こらず、また支配される辛さを味わうひともいなかったのだから。世界はこの戦争の事実を知ることで、支配することがいかに人を傷つけるかを学んだと思う。
◆ホー・チ・ミン
この戦争に大きく関係している人物である。ホー・チ・ミンは、中部ヴェトナムのゲアン省の貧しい儒学者の子に生まれた。彼は始め、ヴェトナム人官吏を養成する仏越学校に入学したが、在学中に反仏の民族主義的思想を持ったため退学した。その後、フランスとフランスの植民地とアメリカ、ヨーロッパ諸国を回った。ロシア革命は、彼の思想に大きな影響を与えた。また、彼はマルクス主義を学び、フランス共産党に入党。そして在仏ヴェトナム人愛国者団を組織し、活動を行った。1923年にコミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出され、1930年にイギリス領香港で、それまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集めて、それらを統一し、ヴェトナム共産党を創立した。また、ホー・チ・ミンは腐敗や汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを嫌い、また慈愛に満ちているため、多くの人々から愛されていた。ホー・チ・ミンは国や国民のために行動を起こし、結果、独立が認められたため、ヴェトナムでのヒーローになっただろう。死後も、汚職がはこびり、権力闘争に陥りがちな共産主義社会において、決してそういった悪事に手を染めなかったとされており、高潔な人柄は政治思想を離れた部分で崇拝を集めている。様々な事件の起きている日本にも、彼のように慈愛を持ち、汚職などとは無縁な人が増えることによって、より平和な国となることができると思う。
ヴェトナム戦争の背景
ヴェトナム戦争とは、1960年代初めから1975年4月30日までヴェトナムの地で繰り広げられた、南ヴェトナムと北ヴェトナムの武力衝突をいう。しかし、戦争の実体は南ヴェトナムを支援したアメリカと北ヴェトナムを支援したソ連・中国との政治戦略的な戦争といえる。アメリカは、ケネディ・ジョンソン・ニクソンと3代の大統領が関与し、1500億ドルの巨費とピーク時には年間54万人の軍人を派遣し、国の威信をかけて挑んだ戦争であった。結果からいえば、北ヴェトナム側の勝利に終わりアメリカ軍はヴェトナムの地から撤退を余儀なくされたのである。この戦争には、アメリカからの経済援助とひきかえに各国の国策のもと、韓国・タイ・オーストラリア・ニュージーランド及びフィリピンから兵士が送り込まれた。アメリカ軍5万8千人以上、南北ヴェトナム人民200万人近い人が犠牲となった。そして、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症(特にダイオキシンの影響)が、4世紀近くたった今でも残っている。枯葉剤の影響で戦争後も苦しんだ人がたくさんいる。このような枯葉剤をまくという残酷なことをなぜ思いつくのだろう。それを考えると人間というものがとても怖く思える。この戦争の特徴の1つに、戦争の前線が存在しなかったことがあげられる。先頭は南ヴェトナムのあちこちで発生した。北ヴェトナム側は、米軍およびマスコミがべトコンと呼んだ”南ヴェトナム解放民族戦線(NLF)”を中心に南ヴェトナム領土内でゲリラ戦を展開していた。敵を待ち伏せ、短時間の攻撃をしかけた後さっと引き上げるといった戦略である。軍隊同士の正面切った戦いではなく、地の利を活かした小競り合い的な戦闘が多かった。これはNLF側の知恵であり、軍備を湯水の如く投入してくるアメリカの近代戦争と真っ向から戦ったのでは勝ち目がないことをよく知っていたからである。真っ向から戦っては無理だとわかっている相手にも、さまざまな考えを出して向かっていく勇気はすごいと思った。もう1つの特徴に、報道が自由になされたことがあげられる。先の湾岸戦争でアメリカ連合軍は、作戦中の報道関係者を完全シャット・アウトした。これはヴェトナム戦争での教訓と言われている。ヴェトナム戦争では、カメラマンなどの報道関係者はどこへ行くのも自由であった。ヘリに便乗できたのである。その結果、大勢のカメラマンがヴェトナムを目指した。そこには常に、世界に知らしめる、自分をアピールする写真を撮るに足る”出来事”があった。戦争中に命を落としたカメラマンもいた。日本は派兵はしなかったが、沖縄・厚木などの基地がアメリカ軍の後方支援の重要な役割を果たすなど、アメリカ軍の強い見方として存在していた。これらのことにより、1960年代の後半には全世界が注目していた戦争であったと言える。
以上のことをふまえ、以下に歴史を述べるとともに私の考えを述べていこうと思う。当時、中国・北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)など相次ぐ共産化に危機感を抱いたアメリカは、CIAを通じ、ゴ・ジン・ジェムを擁立し、南ヴェトナム政権を支援した。しかし、ジェムは一族による独裁を敢行し、民衆を苦しめたためにすぐに大衆の反感を買い、クーデターやデモが続発した。こうした中1960年には南ヴェトナム開放前線が誕生し、北ヴェトナムの支援を受けゲリラ活動を展開する。1963年には仏教徒の大弾圧に対し、僧侶が抗議の焼身自殺を図ると、それを見たジェムの弟、ゴ・ジン・ニューの婦人が「坊主のバーベキュー」と発言。これにより国内外から激しい非難を浴びる。やがてアメリカにも見放されたジェムは11月のクーデターで弟と共に射殺され政権は崩壊した。この言葉を言っている婦人の映像を私も見たが、とてもひどいと思った。人間を何だと思っているのだろうか。人間の命の大切さを知ってほしいと思った。南のクーデターが発覚した同じ頃アメリカでは20世紀を代表する衝撃的な事件が起きた。テキサス州ダラスを訪問中だった史上最年の大統領ジョン・F・ケネディが元海兵隊員オズワルドに射殺されるという事件が起きたのだ。副大統領だったジョンソンはその後大統領になるが、生前ケネディが打ち出していた、ヴェトナムへの援助縮小を覆し、徹底抗戦の姿勢を見せた。やがてトンキン湾事件が発生し報復として「北爆」が開始されることになる。そしてアメリカの介入により1964年から始まった第二次インドシナ戦争は、ヴェトナム戦争と呼ばれることになる。アメリカ軍は次々に兵隊を派遣し、兵員は20万人にまで増えた。これがアメリカの油断を生み、北側のゲリラ戦への戦術以降に対応できずに多くの犠牲を生むことになった。ゲリラ戦ではアメリカよりも北ヴェトナムの方が上であることがわかる。しかしこの時期の小さな敗戦は楽観視されてしまった。その後巨人は蟻に足元をすくわれることになる。1968年はヴェトナム戦争の最大の転機となる年である。アジアの旧正月テト。祝日であるこの日は南北双方に暗黙のうちに休戦状態が成立していた。しかし1968年1月30日未明から共産軍による南ヴェトナム全土への一斉攻撃、いわゆる「テト攻勢」が実地された。この件でアメリカは軍事的な被害は最小限に留めたものの、メディアに訴えることに成功した共産軍は実質的な勝利者となり、アメリカ国内に「反戦」という多くの変化を生むことになる。テト攻勢によるヴェトコンの死者は一週間で4万人にも登り軍事面では大失敗となった。1972年和平交渉が難航する中、ニクソンは訪中し国交を正常化する。両者はヴェトナム戦争終結早期実現に向け努力することを約束するが、3月末にはイースター攻勢と呼ばれる、中央高地やメコンデルタ地帯での猛攻が開始された。この侵攻に対しアメリカは1968年北爆を再開した。ラインバッカ-作戦の発動である。また同時に海上の機雷封鎖なども行った。ウォーターゲート事件をなんとか乗り切り再選を果たしたニクソン大統領は、共産側との交渉を続けると同時にラインバッカー2作戦を発動した。ハノイ・ハイフォンを中心にこれまでで最大の北爆を開始した。これにより戦闘能力が低下した北ヴェトナムは和平交渉の席に着くことになった。1973年にパリ和平交渉は急速に展開した。1月27日にはアメリカ・南ヴェトナム・北ヴェトナム・南ヴェトナム臨時革命政府(解放戦線)の4者が和平協定に調印した。しかし数日後には戦闘が再開した。3月末にはアメリカ軍の最後の部隊がヴェトナムを撤退した。8月には米空軍機のカンボジア爆撃も終了し、アメリカの軍事活動も終了した。これにより共産軍は一気に勢力を増大、この時点でインドシナ戦争は終わったといえる。その後北ヴェトナムは勢いを増し、南ヴェトナム軍は各地で苦戦。1975年ヴェトナム戦争は終結する。アメリカが惨敗したこの戦争はアメリカの威信を失墜させた。多くの代償と引き換えにアメリカが学んだものはその後、グレナダ・パナマ・そして湾岸戦争でその真価を発揮させることになるが、それがこの戦争で失ったものの対価に値するとはとうてい思えないのである。また、私は発揮させて戦争をするよりも、この戦争で死者や犠牲者のでる悲しみを学び、二度と戦争をしないべきであると思う。
◆ジョン・F・ケネディ1960年代初頭、最年少で初のカトリック教徒の合衆国大統領として注目をあびた。1963年に暗殺され、世界中の驚きと哀悼をうけた。1917年、ボストンに銀行家ジョセフ・パトリック・ケネディの次男として生まれる。戦後、マサチューセッツ州から下院議員選挙に出馬して当選した。また、1957年にはピュリッツァー賞を受賞。「ケネディ大統領が長続きしていたら、ソ連と本格的な平和が実現していた。CIAもなくなっていたかもしれない。そんな世界にして欲しくない勢力がケネディ大統領を暗殺した。軍需産業・軍部・CIA。ロバートが大統領になっていても兄と同じように世界を平和にしただろう。」という考えを持つ人がいるが、私もその考えに共感する。ケネディ大統領が暗殺されずに生きていたら、もっと平和な世界が実現していたのでは、と考える。
さまざまな戦い
ヴェトナム戦争では様々な戦いが行われていた。その戦いについて歴史と一緒に私の考えを述べていこうと思う。
◆トンキン湾事件トンキン湾事件とは1964年8月、北ヴェトナムのトンキン湾で北ヴェトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件である。これをきっかけにアメリカは本格的にヴェトナム戦争に突入し、北爆を開始した。1971年6月、ニューヨーク・タイムズの二ール・シーハン記者が7000ページに及ぶペンタゴン・ペーパーズと呼ばれる機密文書を入手し、トンキン湾事件はアメリカが仕組んだものであったことを暴露した。この事件は、ヴェトナム戦争拡大の発端となった事件である。1964年7月31日より、アメリカ海軍アレン・M・サムナー級駆逐艦「マドックス」はトンキン湾で哨戒行動を開始した。任務の公式目的は、北ヴェトナムの沿岸防衛能力に関する情報を得ることにあった。8月2日に3隻の北ヴェトナム魚雷艇が、南ヴェトナム艦艇と間違えて、マドックスに対して魚雷と機関銃による攻撃を行った。その攻撃に対してマドックスは直ちに反撃を行い、近くにいた空母「タイコンデロガ」の艦載機の支援も受け、魚雷艇のうち1隻を撃破、他の2隻にも損害を与えた。8月4日より、マドックスとターナー・ジョイによる北ヴェトナム沿岸への哨戒行動が改めて開始された。
この事件は、会戦ないし敵地占領の口実を得る目的で行われたでっち上げ事件である、という点においては柳条湖事件と共通している。柳条湖事件のときも、日本は中国を得るためにわざと南満州鉄道路線上で爆発を起こし、それを中国のせいにした。これと同じように、アメリカもヴェトナムを得るためにわざとこのような事件を起こした。それほど当時は「領地が多いほど偉い」という考えが強かったのだろう。日本もアメリカも、戦争をするつもりのなかった人を戦争に巻き込んだことや、無実の罪をきせたことに対し、反省すべきであると思った。
◆ディエン・ビエン・フーの戦い1884年から70年間にわたって続いてきたフランスのインドシナ支配は終末を迎えようとしていた。その直接の原因となったこのディエン・ビエン・フーの戦いが、実はフランス軍の積極策から開始されたのであった。この戦いは第一次インドシナ戦争中最大の戦闘である。北部ヴェトナム地区における戦闘において、べトミン軍は次第に力をつけ始めており、1953年夏以来、作戦の行き詰まりを感じていた。この状況を一挙に回復すべく、ラオス国境に近いディエン・ビエン・フーに大規模な攻勢基地を造りだそうと考えたのである。当時べトミン軍はラオス経由で主として中国から物資支援を受けていた。したがって、ディエン・ビエン・フーの位置はフランス側から見た場合、敵の補給路の真っ只中であった。もしここに強力な前進基地が確保できれば、フランス軍にとって、(1)敵の補給路を遮断(2)まとまった敵兵力を機動性の有利性を駆使して撃滅する、という2つの大目的の達成に寄与するはずであった。この目的については、1968年の春におきたヴェトナム戦争屈指の激戦となったケサン貴地の場合とまったく同じである。フランス軍のディエン・ビエン・フー進攻作戦は1953年11月20日に開始された。フランス軍の優位は、べトミン軍が保有していない攻撃・爆撃機であった。しかし戦局は初めからべトミン軍に有利であった。この主な理由は兵力の差である。限定された地域における攻防戦であれば戦闘の結果はそのまま兵力比によることになる。べトミン首脳の予想通り、ディエン・ビエン・フー陥落の翌日、ジュネーブ休戦会議が開催された。ディエン・ビエン・フーにおけるフランス軍の大敗はフランスの東南アジアからの全面撤退の引き金となった。しかしこのディエン・ビエン・フーの戦いがなかったとしても、フランスはかなり早い時期に撤退をしていたと思われる。その理由は、全世界的な植民地時代の終わりと、フランス本国の国力の疲弊であった。このディエン・ビエン・フーの戦いはこれ以後のインドシナ戦争を学ぼうとする者に数々の教訓を残した。ヴェトナム独立を目指す勢力は必要とあらば(1)ゲリラによる不正規戦だけではなく、正規軍同士の本格的な戦闘能力を保持していること(2)近代的な輸送手段は少ないが、それを補うだけの人海輸送手段を取りうること(3)中国・ソ連からの武器・物資の供給は充分に行われていること(4)またその補給路の完全な遮断は困難なこと、などが挙げられた。アメリカは400名の軍事顧問団を派遣していた。しかしこれらの顧問団はこの敗戦から教訓を学ぶことをしなかった。これがその後18年間にわたるアメリカのヴェトナム介入という悲劇が始まるのである。
◆リバーラインの戦い南政府軍・アメリカ軍対NFLの戦闘においては、あまり知られていない分野が海岸線とリバーラインの戦いである。この種の戦闘は(1)南ヴェトナムの海岸線における北ヴェトナムからの沿岸輸送の阻止(2)メコンデルタ地帯の湖泥・河川沿いの地帯における戦闘の2つの地域に絞られる。この戦いは大部隊を投入しての戦闘にはならなかったが、いずれの戦いでも敵の兵力の激減が目標であった。そのため、スケールの大小とは無関係に戦闘は凄惨なものであった。このように、ヴェトナム戦争の中にはあまり知られていない戦いも起きているのである。知られていないとはいえ多大な被害者は出ている。戦いの大きさは関係なく、ちゃんと知るべきであると思った。
◆カンボジア侵攻1970年4月26日、35000名のアメリカ軍と25000名の南ヴェトナム軍は四方向からカンボジアに侵攻した。目的はNLFの拠点攻撃および北からのホー・チ・ミン・ルート、南からのシアヌーク・ルートの切断である。1972年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させ、この内戦に直接介入した。これによってベトナム戦争はインドシナ戦争に拡大した。ロン・ノルは10月に軍事独裁体制を宣言し、翌1972年3月に大統領に独裁的権力をもたせた新憲法を公布した。しかし、中国からの密接な支援を受けたクメール・ルージュはこれと戦闘を続け、さらに1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退するとロン・ノルは追い詰められた。1975年4月、遂にロン・ノルは国外へ亡命、隣国ベトナムではサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結した。この後、クメール・ルージュが首都プノンペンに入城し、1976年6月に「カンボジア民主国憲法」を公布し、国名を民主カンプチアに改称した。
カンボジア進攻作戦は南・アメリカ軍にとって大きな勝利であったが、一方では翌年のラオス侵攻の失敗と深く結びついているのである。
◆ラオス侵攻昨年4月に実施されたカンボジア東部に対する進攻作戦から10ヵ月後の1971年1月末、アメリカ軍と南ベトナム軍はラオスへの進攻を開始した。これは、南ベトナム北部に隣接するラオス東南に存在するホー・チ・ミン・ルートの分断と兵站基地を破壊することを目的としていた。この作戦は”ラムソン719“と名付けられたが、ある意味ではベトナム戦争の将来を暗示するものだったからである。その理由は、1970年から始まっていた”ベトナム化“政策の結果を大規模で実践するものだったからである。これをより簡単にいえば、アメリカ製の兵器で武装し、百万名にまで膨れ上がっていた南ベトナム政府軍が、NLFと北ベトナム軍に対抗できるかどうか試された戦闘であった。1960年代半ばになると、ラオスはベトナム戦争に引き込まれ始めた。北ベトナム軍は、南ベトナムで戦う兵力の補充経路として、ラオスの東・南部に存在するジャングルの小道(ホーチミン・ルート)を利用した。そのため、1970年にアメリカ軍はホーチミン・ルートへの爆撃を激化させ、1971年2月にはベトナム共和国軍が同ルートを切断するためにラオス南部に侵攻した。ただし、南ベトナム軍はパテート・ラーオによって撃退され、同ルートの切断を果たすことができなかった。結論から言えば、南政府軍を主力とし、アメリカ軍の支援によって行われたラオス進攻作戦は北側の反撃によって完全に失敗したといえる。
◆ケサン攻防戦ケサン77日間の戦い“としてベトナム戦史上に残る戦闘は1967年12月から開始された。戦死者、負傷者の数から見れば決して大きいとはいえないこの戦闘が特筆されるのは、(1)アメリカ軍と北ヴェトナム正規軍の正面対決であった(2)アメリカ軍が完全に北軍に包囲された戦いであった(3)アメリカ軍が史上最大の空軍力を投入し、攻撃側の戦力を破壊した、という理由がある。しかしこのよう分析よりも、ケサンの戦いが全世界の注目を集めた点は、『ケサンは第二のディエン・ビエン・フーとなるか?』のひと言にあったようである。戦いは1967年4月、5月に第1期と呼ばれるものが勃発していたが、規模は大きくない。ケサンが包囲され、陥落の恐れが生じてきたのは1968年1月中旬からである。同じ時期に共産側は最大の攻撃”テト攻勢“を仕掛けており、同年4月初旬までがケサンの危機であった。もしテト攻勢が成功し、かつアメリカ軍の南ベトナムにおける最大の前線基地ケサンが陥落すれば、共産側はこの戦争における勝利の可能性を全世界に知らしめることができるのである。4月1日、地上からケサンを開放するためのペガサス作戦が開始され、2週間で終わった。ようやくケサンを包囲から開放することに成功したアメリカ軍は7月に入ると基地を徹底的に破壊した。その理由は、表面的には行動の自由を大きくするためというものだが、維持していくための代償が過大に過ぎなかったのである。ケサン撤収の決定はアメリカ軍内に大きな衝撃となった。55万名という大兵力を南ベトナムに駐留させていながら、最大の前進基地を放棄せざるをえないという事実は、別な観点に立てばそれだけ北・NLFの圧力が大きいということでもあった。
◆フエ事件フエ事件の虐殺は否定しようのない事実である。 フエの虐殺についての根拠だが、NLFがテト攻勢中に引き起こしたフエ事件の存在は現在のベトナム政府ですら事実として認めている虐殺事件であるので、政治的意図による歴史事実の歪曲や抹殺を避ける意味から記載したものといえる。当該事件ではNLFが粛清リストを作成し、フエ市職員や消防士、警察官、教師、牧師、外国人医師等とその家族全員を虐殺した。虐殺という、罪のない人を無差別に殺してしまうという行為は本当に許せないことである。
以上に様々な事件について述べてきたが、ヴェトナム戦争という1つの戦争の中にもこれだけ多くの戦いが起きている。そして1つ1つの戦いでたくさんの命が奪われている。この事実をどれだけの人が知っているのだろうか。私はヴェトナム戦争について調べていくことで今まで知らなかった事実も知ることができた。人間の考えることの恐ろしさも知った。戦争とは支配することや権力を得たがる、欲を持つ人間のみが起こすものである。しかし平和を願う人たちも巻き込まれてしまう。この事実をとても悲しく思う。現在でも国同士の戦いは行われているが、早く戦争によって失われるものの大きさに気づいてほしい。そして戦争のない世界になってほしい。
さまざまな作戦
ヴェトナム戦争で起こったたくさんの戦いの中に様々な作戦が行われている。以下に歴史とともに私の考えを述べていこうと思う。
◆テト攻勢 旧正月(テト)休戦を打診したものの拒否された北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は、旧正月下の1968年1月29日の深夜に、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して大規模な一斉攻撃(テト攻勢)を開始した。しかしすぐに体勢を立て直した南ベトナム政府軍とアメリカ軍の反撃を受け、南ベトナム解放民族戦線は壊滅状態に陥り、2月1日にジョンソン大統領はテト攻勢の失敗を宣言し間もなく戦闘は終結した。テト攻勢で南ベトナム解放民族戦線が事実上壊滅したことにより、その後のベトナム戦争は、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム正規軍中心の戦いとなっていった。 テト攻勢は軍事的にみては大きな失敗であったが、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵により南ベトナムの首都・サイゴンにあるアメリカ軍の放送局が占拠され爆破された他、わずか20人の南ベトナム解放民族戦線のゲリラ兵が、「要塞」とも称されたサイゴンのアメリカ大使館を一時占拠し、その一部始終がアメリカ全土で生中継されるなど、北側勢力の政治的効果は高かった。 また、テト攻勢の最中に、南ベトナムのグエン・カオ・キ副大統領の側近であるグエン・ゴク・ロアン警察庁長官が、サイゴン市警によって逮捕された南ベトナム解放民族戦線の将校、グエン・バン・レムを路上で射殺する瞬間がテレビで全世界に流された。以前レムはロアンの関係者家族を皆殺しにしていたとはいえ、まだ裁判すら受けていないレム容疑者を、南ベトナムの政府高官自らが報道陣のカメラを前にして路上で射殺するという衝撃的な映像は、世界中に大きな衝撃を与え、ベトナム戦争に対する各国の世論に大きな影響を与えた。 家族を殺されてレム容疑者をとても憎んでいるのはわかるが、政府高官が裁判も受けていない、しかも報道陣のカメラを前にして射殺するのはどうなんだろうか。裁判を受けていないということは、まだ刑は決まっていないということになる。それなのに自らの憎しみの気持ちで殺してしまったのだとしたら、殺人者と同じということになってしまうのではないだろうか。私はそのような状況になったことがないので気持ちはわからないかもしれないが、警察庁長官という大きな責任をかかえる立場をよく考えるべきであったのではないだろうか。
◆イースター攻勢 パリ和平交渉が煮詰まっているにもかかわらず、共産側は1972年3月末にこれまでに最大といわれる大攻勢を仕掛けた。これは、その時期から西側によって”イースター攻勢“と名付けられた。 この攻勢の特徴は、(1)主力はあくまで北ベトナム正規軍であり、かつその事実を明らかにしていたこと。(2)大量の戦車、装甲車、重火器を先頭にした野戦軍の戦闘を実施したことなどである。 イースター攻勢において戦いが最も激しかったのは、南ベトナム最北部にあるクアンチ省である。DMZの南に位置することから、ベトナム戦争の全期間を通じて激戦の舞台となったこの省は、このときもまた戦場と化した。 この戦いは、ベトナム戦争中屈指の激戦となり、特に南北両軍の戦車が大量に投入された。この戦争中に大規模な戦車戦が行なわれたのは、この時だけである。 ニクソン大統領は5月の初めから、北側の攻勢に対する報復として、北ベトナムの港湾に対する機雷封鎖を実施した。 もしアメリカが、ベトナム戦争駐機の1965~68年にこれほどの封鎖手段を用いれば、南ベトナムはNFL勢力の拡大を抑え切ったのではないかと思われるほどの報復攻撃であった。しかし、このような北ベトナム封鎖を続けてはいられない状況もアメリカにはあった。この年、相継いで実現した中国、ソ連との交流が壊れる可能性が生じてきたからである。 年明けとともに和平協定が結ばれた。皮肉なことに、和平協定の発効とともにアメリカは4グループからなる大掃海部隊を北に送り込み、9ヶ月前に自軍が敷設した機雷を除去する作業を開始した。この掃海作業は”エンド・スウィープ“と呼ばれ、アメリカ海軍の持つ総ての掃海艇が参加している。 この機雷封鎖作戦において、アメリカ海軍はベトナム戦争中最大の損失を記録している。それは駆逐艦ウェリントンで、1972年7月11日に自軍の機雷に触れ、沈没は免れたものの大破してしまったからである。
◆ジャンクションシティ作戦 アメリカ陸上戦闘部隊と南ベトナム政府軍は、1968年まで共同してNFL・北ベトナム軍と戦うことが多かった。このような戦闘の中で最大のものが1967年2月から5月にかけて実施されたジャンクション・シティ作戦である。またこの作戦は、南ベトナム領内で行なわれた最も大きい自由主義陣営からの攻撃行動であった。作戦は2月22日に開始され、5月14日に終了しているので、3ヶ月近い長い作戦であった。また、この作戦の名称は、実は18の中程度の独立した作戦の集合である。攻撃の対象となるの地帯はサイゴン市の北西部からカンボジア国境にかけての戦闘地区Cであった。 軍事的にこの作戦を見て行くと、ある面ではベトナム戦争の実態をよく示しているといえる。1967年は駐ベトナムのアメリカ軍勢力が最も増強されつつある時であった。この時期に実施された最大の作戦であったにもかかわらず、そして南ベトナム軍を含めて4万人という大兵力を投入したにもかかわらず、結果は成功とは評価できないものであった。 アメリカ軍首脳は『J・C作戦は大成功であった』と自画自賛したが、同軍の一部には疑問が残った。投入可能な全力を注ぎ込んで大作戦を行なったが、結果としてわずかな損失を与えただけ、というのが実情のようである。 翌年のテト攻勢を見ても、ゲリラ戦の場合、規模の大小をとわず攻撃をかけた方が目的を達成できないことが多い。この事実は軍事行動のスケールが大きいほど当てはまるようである。 これはインドシナ戦争にも言えることではないだろうか。インドシナ戦争の時もフランスはヴェトナムに戦いを仕掛けたが、ヴェトナムはゲリラ戦で勝利した。このように戦争を仕掛けた方・相手を支配しようとした欲の深いほうが、仕掛けられた方・支配から逃れようと必死に戦ったほうに負けるという結果になったのである。
冷戦
冷戦とは、第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義(自由主義)陣営とソビエト連邦を盟主とする共産主義(社会主義)陣営との対立構造。1945年から1989年まで続き、直接武力衝突する戦争を伴わなかったため、武力衝突を意味する「熱い」戦争に対して、このように呼ばれた。各陣営とも一枚板ではなく動的には反目するなど、イデオロギーを概念とした包括的な大同団結である。
以下に冷戦について述べていくと共に、私の意見を述べていこうと思う。
冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を中心とした共産主義の陣営(共産圏)は、東欧に集まっていたことから東側、対するアメリカ合衆国を中心とした資本主義陣営は西側と呼んで対峙した。主に欧州における対立構造であるが、欧州以外にも、アジア、中東、南米などで、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているが為に経済的、人的な情報の交流が少なく、当時の英国首相ウィンストン・チャーチルは「鉄のカーテンがおろされている」と表現した。このどちらにも属さない後進国(開発途上国)は、「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営拡大の思惑のなか翻弄されたといわれる。しかしこうした両陣営の思惑を逆手に取り両者を天秤にかけることで多額の援助を引き出す援助外交も活発に行なわれた。またこの二つの対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった。 ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったためヤルタからマルタへということも言われる。 冷戦の起源は、 主に欧州の分割を扱った、1945年2月のアメリカ・フランクリン・ルーズベルト、ソ連・ヨシフ・スターリン、イギリス・ウィンストン・チャーチルによるヤルタ会談が、戦後の世界の行方を決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていったのである。1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。戦争によって大きな損害を蒙っていた西欧諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。とくにフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシアおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。 西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。 枢軸の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域はドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。 冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。ヤルタ会談によって、日本が統治していた朝鮮半島は、北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、それぞれに傀儡政権を作り、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中国軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。 1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めたジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復した。 第軍備拡張が進む中、ソ連もアメリカも財政赤字に苦しみ、消耗していく。アメリカはアメリカ病と呼ばれる経済不振、モラルの低下、犯罪の増加に悩まされ、財政難による軍事拡張の限界と、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。 1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約を調印した。ソ連は東欧諸国に対しても改革を促し、1989年にポーランドでポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代、ハンガリー、チェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ住民が西ドイツへ大量脱出した。このため11月には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。12月、地中海のマルタ島でゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した。 ベルリンの壁によって多くの人が悲しい思いをした。家族がバラバラになってしまった人たちもいただろう。家族と会いたさでその壁を越えようとすると見張りの人に射殺されてしまう。それで命を落とした人も少なくないだろう。1989年とは私が生まれた年である。このような残酷な戦争の事実を知らず、平和な時代に生まれてきたことはとても幸せなことである。戦争は得られるものより失うものの方がずっと多いと思う。たくさんの犠牲者・悲しみ・憎しみを生む戦争は世界からなくすものである。