マカレンコ2
出典: Jinkawiki
経歴
ソ連の教育家、作家。1888年、ウクライナのベロポーリエで鉄道工場労働者の子として生まれる。ポルタバ市の高等師範学校を卒業(1917)ののち、浮浪児や未成年の法律違反者を収容し再教育する施設「労働コローニャ」(後のゴーリキー・コローニャ)の所長として教育に尽くした(1920~1935)。ここでの教育経験が主著『教育詩』(1933~1935)を生んだ。「人間に対する可能な限りの尊敬と要求」という人格尊厳の理念、および、個性の発達は集団においてこそ保証されるとする考え方は、「集団における集団による集団のための教育」という集団主義教育思想として展開された。さらに、ジェルジンスキー記念コムーナの指導を通して青少年の生産労働と集団教育との結合を主張し、実践記録『塔の上の旗』(1938)では、集団の教育力を重視した社会主義教育の原理を説いている。諸種の教育手段の調和的構成体のなかでのみ人間形成は可能であり、児童集団はソビエト社会の一部であるという考え方は、教育と政治との緊密な連関を強調するソビエト社会の構成原理に連なるものであった。彼はジェルジンスキー・コムーナに1935年まで在職し、キエフに移った後1937年にモスクワに移り、その教育体験を著作として次々に世に送り出した。(没 1939.4.1)
人物
エム・ゴーリキーはマカレンコ宛ての手紙に、「あなたは素晴らしい人間です。それもまさにロシヤが必要としているたぐいの」と書き、評している。マカレンコの伝記や教育的・文学的創造に対する同じような驚きや感嘆の情を、またこの上なく生き生きとした興味を、ソビエトや外国の多くの読者たちも味わっている。ロシアの教育者の一人としてマカレンコほど世界の注目をあびた者はいなかった。彼をどう理解したらよいか、彼の経験をどう理解したらよいかについての論争は年々激しくなっている。今日ではマカレンコに対する自分の態度を決めないで教育者であることは難しいほどだ。彼は「一般的な」教育し、その教育の結果がどうなるかは自分たちは何も知らない教育者たちとは違って、教育に対して全責任をとることを恐れなかった。彼はただ「教育」をしただけでなく、あるいは「再教育」をしただけでなく、自分の人間的性格を新しくつくりあげたように子供たちの人間的性格をつくりあげた。子供の平安を守る、という一つのことに向かい、飢えから守り、侮辱から守り、同僚の虐待から守った。子供たちに対して最高に良い人間であり、ゴーリキーの言葉によると、「子供たちへの真の愛の火の中に」燃え尽きていた。また、子供の集団の力の偉力を無限に信じ、ソビエトの集団主義教育の体系化を行った。
参考文献
- 『子どもの教育・子どもの文学』著 マカレンコ 編訳 小檜山奮男、松谷さやか 新読書社(1973)
- 『マカレンコ 上』著 バラバノヴィチ 訳 池田貞雄、海老原遙、十枝修 明治図書(1984)
- https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B3-135671