武田信玄2

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武田信玄2

目次

武田信玄

武田信玄(たけだ しんげん)1521~1573 清和天皇を祖とする清和源氏の流れをくむ名族の出身で、源頼義(みなもとのよりよし)の子、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)[八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)]の子孫にあたる。武田氏は、常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)に拠点を構えた、新羅三郎義光の子、源義清(みなもとのよしきよ)が、息子清光(きよみつ)とともに、甲斐国市川荘に移されたのがはじまりであり、この子孫は、甲斐源氏と総称された。なお、源義清・清光父子は、すでに常陸国在国時代には、在地を名字とし、武田氏を名乗っていたことが指摘されている。名は晴信(はるのぶ)で出家して信玄と号す。父信虎(のぶとら)の専断のゆえに家臣団が離反しようとしたため、父を追放して家督を継いだ。

主な経歴

信濃の支配をめぐって越後の上杉謙信と川中島で争い、駿河、遠江に兵を進めて織田・徳川連合軍を三方原の戦いで破ったが、上京の志を果たさず死去した。「甲州法度之次第」や信玄堤などすぐれた分国支配を行った。

川中島の戦い

1553~1564 武田信玄と上杉謙信の5回にわたる信濃国川中島(千曲川と犀川に挟まれた地)の対陣。1561年の第4回の衝突が最も激しかったが、結局、勝敗は決しなかった。

甲州法度之次第

天文十六年(1547)六月一日に、武田信玄が制定した、武田氏の分国法であり、制定した26条に、その後、1554年までに追加制定されたものを合わせて55条が残されている。「信玄家法」と通称される。その制定に至るまでの過程については、不明であるが、「高白斎記」天文十六年五月晦日条に「甲州法度之次第書き納め進上仕り候」とあり、重臣駒井高白斎らが条文の検討や推敲に関与していたことは間違いないだろう。信玄は、重臣層とともに条文の検討を行い、その清書を五月末日に提出させ、翌六月一日に制定したものと推定される。

参考文献

武田信玄とは-コトバンク 甲州法度之次第 ・平山優著『武田信玄』吉川弘文館


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