井上源三郎

出典: Jinkawiki

2015年7月29日 (水) 01:57 の版; 最新版を表示
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目次

生い立ち

[生]1829年(文政12年)3月1日 [没]1868年(慶応4年)1月5日 武蔵国日野宿北原にて八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の十人兄弟の三男として生まれる。


人物

剣の腕前はそれほど恵まれていなく、後輩の沖田、土方、食客の山南らが出稽古に出向くようになっても井上が教授に出かけたという記録も見つかっていない。しかし、根気、粘り強さ、実直さで周囲から一目置かれる存在であった。同士として、近藤や土方を支え、労咳を患っていた沖田を肉親としてよく見守っていたといわれている。生真面目で普段は無口だが、大変頑固な性格をしていた井上だが、「源さん」の愛称で親しまれていた。この点から、大変温厚で人望の厚い人物であったと言われている。


生涯

幼少時は、自宅近くの八王子千人同心・日野義貴の寺子屋にて学ぶ。1874年頃、二人の兄も学んでいた天然理心流の三代目宗家・近藤周助の門をたたく。「源さん」の愛称で親しまれた。新撰組で有名な1864年の池田屋事件では土方歳三の支隊指揮を担当し、近藤勇が切り込んだと知らせると、池田屋に突入し長州人浪士を8人捕縛、1人を斬り、奨励金を得る。慶応元年6月には組織再編成で新撰組六番組組長に任命される。新撰組での仕事は地味なものばかりであったが、全力で当たった。縁の下の力持ち的な存在であったと思われる。鳥羽伏見の戦いでは、味方が不利になり、大阪へ引き揚げ命令がでたが、頑固な性格をした井上は一歩も引かず、戦闘を続けた。その中で銃弾に当たってしまい、倒れ亡くなってしまう。井上泰助により、首と刀を寺の前に埋めたとされるが、寺の名前は不明である。享年38歳であった。


参考資料


  人間科学大事典

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