藤堂平助
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藤堂平助
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生い立ち
[生]1844年(天保15年)[没]1867年(慶応3年)。武蔵国江戸に生まれる。
愛刀・流派
愛刀は上総介金重であり、流派は天然理心流・北辰一刀流である
生涯
新撰組結成前の試衛館時代からの近藤、土方らとの同志である。壬生浪士組結成時には最年少の20歳で幹部となる。そして新撰組八番組の組頭をつとめる。新撰組当初は、沖田総司、永倉新八、斎藤一とともに、「近藤勇の四天王」と呼ばれたほどの剣の腕前であった。戦闘には必ず一番に飛び込むことから「魁先生」というあだ名までついた。1864年(元治元年)の新撰組で有名な池田屋事件では、近藤、永倉、沖田、藤堂の4人で屋内に突入するが途中で鉢金を落とされ、額を割られ重傷を負い戦場を離脱する。しかしその働きは幕府、会津藩からも評価され、奨励金を受け取るほどであった。同年8月に、隊士募集のために江戸に下り、伊東甲子太郎を勧誘する。伊東が新撰組加入後の藤堂は完全に伊東派として行動するようになる。しかし、思想的に近藤と相容れないものがあったのは事実である。この思想の違いから1867年(慶応3年)3月に伊東甲子太郎は新撰組を脱退し、それに藤堂もついていく。その後、伊東は近藤と土方を暗殺しようとしている計画がスパイとしての斎藤に見つかり、近藤たちは伊東の暗殺を決意。その後、新撰組により暗殺された伊藤を現場に放置し、ほかの高台寺党員が遺体を引き取りに来るのを待ち構えていた。そして藤堂は同士7人をつれて現れ、数十人の新撰組隊士と切り合いになる。この時、以前の仲間であった永倉新八は藤堂を逃がそうとするが、新入りであった新撰組の隊士に切り付けられ死んでしまう。享年は24歳であった。
参考資料
新撰組468隊士大名鑑[完全版]特別監修壬生狼友の会 黒川俊一 小池書院
ペンネーム:N.M