イスラム教の歴史と特色
出典: Jinkawiki
イスラム教の歴史
イスラーム誕生の時期は、藤原不比等の支持を受けた女性天皇である元明天皇(在位707-715)が、奈良の藤原京から平城京に遷都する約100年前の時代である。中国由来の律令制に基づく(天皇中心の)中央集権国家の礎が固められつつあった時であり、日本の国としての起源を偲ばせる日本国の黎明の時期でもあった。 西暦610年頃に天使ガブリエル(ジブリール)の啓示を受けてイスラームの布教活動を始めたムハンマドは、『唯一神アッラーフへの無条件の帰依』と『神の前の平等主義』を主張して、アッラーフに帰依するムスリムが敬虔な信仰心と相互扶助の精神で結合する理想の『ウンマ(イスラーム共同体)』を建設しようとした。 しかし、当時のメッカの権力者や富裕層にとって、ムハンマドの説くイスラームの教えは必ずしも彼らの利益にならないものだった。そればかりか、『唯一神アッラーフの前に万人が平等である』というイスラームの基本思想は、メッカの有力者層の既得権益や政治的な地位を脅かすものであったため、ムハンマドとイスラームの信徒達はメッカで厳しい迫害と不当な差別を受けるようになる。ムハンマドがガブリエルの啓示を受けて預言者になったばかりのイスラーム初期には、その信者はムハンマドの家族・親族や親密な友人知人だけに限られていたと言われる。しかし、この時期にイスラームの信者となった富裕な商人アブー・バクルは、ムハンマドの生涯の親友となり、長きにわたってその布教と政治を有能な知性と旺盛な行動力で支援する事にる。 日増しに激しくなっていくメッカ(マッカ)でのイスラーム迫害に耐え切れなくなった預言者ムハンマドと親友のアブー・バクルは、621年にメッカの北西400キロの火山台地にあるヤスリブ(メディナ)へと逃れることになる。この621年にムハンマドが行ったメッカからメディナへの拠点移動を、アラビア語の“移住”を意味する語を当てはめて『聖遷(ヒジュラ)』と呼ぶ。 宗教の開祖が、布教活動を始めた土地では受け容れられず、苛烈な迫害・弾圧を受けるという伝説。そして、その屈辱と差別に耐え忍ぶ臥薪嘗胆の時期を経て、弾劾を受けた土地へ捲土重来を果たすというのは、キリスト教やイスラム教を筆頭におよそ全ての大宗教に共通する元型(アーキタイプ)の物語といえる。 聖遷(ヒジュラ)によってヤスリブ(後のメディナ)に活動の拠点を移したムハンマドとアブー・バクルは、熱心な布教活動を行ってメディナで大勢のムスリム(イスラーム信徒)を獲得し、ムスリムの相互扶助と信仰心によって支えられる強力なウンマ(イスラーム共同体)の建設に成功する。ヤスリブのみならず周囲のアラブ人をムスリム化させることに成功したムハンマドは、自らの教義を否定しアッラーフの啓示を無視したメッカに立ち戻り、年にメッカの占領(圧倒的軍勢による無血征服)とイスラームの布教を果たす。 しかし、メッカ占領を達成した2年後の632年にムハンマドは死去し、生涯変わらぬ忠誠と信仰を誓ったアブー・バクルがウンマ(イスラーム共同体)の政治上(行政)の最高指導者であるカリフ(ハリーファ)に就任することとなる。イスラームの始祖ムハンマドの死後に、ウンマやイスラーム国家の最高権威を有する預言者の代理人のことをカリフ(ハリーファ)という。その名称の由来は、初代カリフに就任したアブー・バクルが『神の使徒の代理人(ハリーファ・ラスール・アッラーフ)』を称したことによるという。 カリフを預言者ムハンマドの代理人としてその最高権威を認めるイスラーム宗派がスンナ派であり、カリフの権威を認める初期イスラーム共同体から分派したシーア派は、カリフの政治的指導者としての権威を認めない。カリフの中でも初期のイスラーム共同体(ウンマ)で、ムスリムの民主的な合議によって選出されたカリフを特に『正統カリフ』と呼び、スンナ派の信徒からは強い敬意と信頼を寄せられている。 しかし、イスラームではムハンマドやカリフは尊敬の対象にはなっても、宗教的崇拝や神聖性の象徴とはならないことに注意が必要である。キリスト教の教義では、イエス・キリストを神の子として『神・キリスト・聖霊』は三位一体の存在であると見なすのに対して、イスラームの教義では、開祖ムハンマドといえども神の言葉を預かる単なる人間に過ぎないのである。イスラームでは、モーセやイエス、ムハンマドなどの預言者や預言者の代理人(カリフ)に神聖性を認めることがなく、彼らを宗教的信仰や崇拝の対象とすることは禁じられている。 軍事的な実力行使によってカリフの座を得たムアーウィヤはムアーウィヤ1世として王になり、歴史上初のイスラーム王国となるウマイヤ朝(661-750年)を樹立した。ウマイア王朝建設以降、カリフの位は王家が世襲するようになり、正統カリフの時代のような合議による選出はなくなった。一方、ウマイヤ朝成立以後、広大な版図を領有するイスラーム王国(イスラーム帝国)の相次ぐ出現によって、イスラム教(イスラーム)が世界宗教として発展を遂げる地政学的な基盤が形成されることとなった。 ムハンマド存命中には、イスラームは世界宗教と呼べるほどの信者数と地理的版図を持っていなかったが、ウマイア朝やアッバース朝、セルジュク朝トルコ、オスマン朝トルコなどのイスラーム帝国の登場によって、アラビア半島だけでなく、中東全域、ヨーロッパ各部、中央アジア、インド周辺部、アフリカ北部、中国大陸西北部などに布教範囲を広げ世界宗教としての地歩を確実に進め始めたのである。
==イスラム教特色==
イスラム教が他の宗教と異なる最大の特徴は、政教一致のウンマ(イスラーム共同体)を理想とする政体が存在すること、クルアーン(コーラン)やシャリーア(イスラム法)で規定されるムスリムが守らなければならない戒律・教義(六信・五行)が現在でも形骸化していないことである。キリスト教や仏教にも聖職者や信者が守るべき禁欲的な戒律規程は存在するが、その多くは形式化・形骸化していて厳格に戒律・禁忌が守られているケースは少ない。特に、飲食の種類や断食の時間、偶像崇拝に関する禁忌などは、イスラーム以外の宗教で厳格に守られている宗教は極めて稀である。 デンマークなど欧州のキリスト教国で、ムハンマドの風刺画がイスラーム信者の強烈な反発と憤慨を受けたが、これもイスラームの戒律で厳しく偶像崇拝が禁じられているためである。唯一神アッラーフやその最終預言者ムハンマドは、絵画や彫刻などの偶像によってその神聖性(人間の預言者に過ぎないムハンマドは神聖な崇拝対象ではないが)や偉大さを表現することが不可能であり、偶像崇拝は神以外の物象を崇めることになるので禁じられている。メッカのカーバ神殿に献納されているアッラーフの御神体は、イスラーム誕生以前の多神教時代に、地球外の惑星からの隕石と伝承されていた黒曜石であるが、聖地メッカにあるカーバ神殿への礼拝行為は禁止されている偶像崇拝には該当しない。勿論、イスラム教の礼拝所(寺院)であるモスクには、キリスト教の教会のような偶像崇拝の対象となる彫刻・絵画・ステンドグラスは存在しない。 イスラム教はキリスト教や仏教という他の世界宗教と比較すると、宗教教義がムスリムの日常生活の隅々にまで行き渡っているという点が注目される。即ち、政治・経済・法律・倫理・都市建築などもイスラム教の教えによって正しいあり方が規定されていて、キリスト教や仏教よりも社会や民衆に与える影響力の強度が非常に大きいのである。ムスリムの人生全体の方向性やムスリムが生活する社会の規範意識・政治規律を規定するという意味で、イスラム教は一般的な宗教というよりも宗教的な政治社会文化の全体を指示すると解釈することもできる。