農民一揆

出典: Jinkawiki

2015年7月31日 (金) 20:39 の版; 最新版を表示
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江戸時代の終わりから世の中の不安から日本の各地で農民一揆が多発しました。しかし、一揆は明治政府が成立した後も続きました。1873年以降は徴兵令の反対や地租改正に反対する一揆が各地で激化しました。1877年に西南戦争が始まると、政府は農民一揆と西南戦争が結びつくことを恐れて、地租を減免した。主な一揆は、以下のものである。 ・1873年5月血税一揆(徴兵反対一揆)徴兵制度や重税を背景に数万人が参加。 ・1874年2月~3月佐賀の乱 不平士族1万人余りが征韓論に敗れた江藤新平を加えて行われた。 ・1876年10月敬神党の乱 旧熊本藩士が、廃刀令など新政府の開化政策に反対して挙兵した。 ・1876年10月~11月秋月の乱 旧秋月藩士が敬神党の乱に呼応して行われた。 ・1876年10月~11月萩の乱 旧長州藩士が秋月の乱に共鳴して行われた。 ・1876年11月~12月地租改正反対一揆 地価算定・米価基準をめぐって各地で一揆が発生した。特に茨城県や三重県などで大一揆となった。政府は西南戦争と結びついてしまうことを恐れて翌年から地租税率を3パーセントから2.5パーセントに下げた。 ・1877年2月~9月西南戦争 旧薩摩藩の不平士族が1万3000人が参加した。その中心的存在であったのが、旧薩摩藩出身で明治政府の中心にいた西郷隆盛であった。国内で最大規模の反乱であった。西南戦争中の1877年ごろ、大接近した火星の中に西郷隆盛の姿が見えたという噂が流れた。そのため、それ以後火星は西郷星とも呼ばれた。最終的には、何種類もの錦絵のモデルとして描かれ、売り出された。また、熊本城に籠城する鎮台兵救援のために派遣された政府軍が、不平士族で構成された西郷軍と田原坂で交戦を行った。これが、田原坂の戦いである。壮絶な戦いの末に、徴兵中心の政府軍がこの戦いの主権を握った。こうして、不平士族は政府軍に押し込まれて西南戦争は終結を迎えた。

西南戦争の終わりと同時に、日本各地での農民一揆が終わりを迎えた。 農民一揆は、国民の政府に対する不満だけを表しているのではなく、文明開化に対する変化への恐怖、不安も含まれていると思う。

                                                                                     S.K


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