ベーブ・ルース

出典: Jinkawiki

2015年8月1日 (土) 13:22 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman Ruth, Jr., 1895年2月6日* - 1948年8月16日)、通称ベーブ・ルース(Babe Ruth)は、アメリカ合衆国のプロ野球選手。メリーランド州ボルチモア出身。「野球の神様」と言われ、米国の国民的なヒーローでもある。

最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人で、本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した選手でもある。1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまでの34年間、MLB最多記録であった。また、生涯通算本塁打数714本も1974年にハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。

ブラックソックス事件による当時の球界への不信感を、豪快な本塁打の連発により払拭するにとどまらず、さらに野球人気を高めることに成功した。アメリカ国内において、数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていたベースボールを、最大の人気スポーツにした事で「アメリカ球界最大の巨人の1人」と評されている。

目次

メジャーリーグ

レッドソックス時代

ボストン・レッドソックス時代 メジャーリーグデビューとなった1914年、ルースは5試合に出場し、そのうちの4試合は投手としてマウンドに登った。デビュー戦となった7月11日には、初登板初勝利を記録する。しかし、当時のレッドソックスはスター選手を多く抱えており、登板機会がさほど与えられないままマイナーへ降格された。

翌1915年、シーズン前の春季キャンプにて、レッドソックスの先発ローテーション入りを果たす。同年、ルースは18勝8敗の好成績を挙げ、レッドソックスはアメリカンリーグのペナントを制した。また、バッティングでもチームに貢献しており、打率.315に加えて本塁打を4本打っている。レッドソックスは4勝1敗でワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席でも内野ゴロに終わっている。 1916年、若干春季キャンプで苦しむものの、23勝12敗・防御率1.75、9完封を挙げる。防御率と完封数はリーグ1位であり、なお完封数は1978年にロン・ギドリーが並ぶまで左投手としてはリーグ記録であった。同年6月27日のフィラデルフィア・アスレチックス戦では自己最多の10奪三振を奪ったり、大投手ウォルター・ジョンソンに投げ勝つなど、ルースは投手としての実績を着々と積んでいった。 続く1917年もルースは大活躍を見せ、24勝13敗・防御率2.01、6完封に打率.325と大活躍の成績であったが、チームは100勝をあげたシカゴ・ホワイトソックスの快進撃に及ばず、9ゲーム差の2位に終わった。6月23日のワシントン・セネターズ戦では、先頭打者に四球を与えたあと怒りに狂い、審判を殴ってしまう。これにより、ルースには10試合の出場停止処分が下された(ちなみにこの試合では代わってマウンドに上がったアーニー・ショアが9回終了まで投げ抜き、史上初の継投によるノーヒットノーランが成立した。その後7月11日の試合は、デトロイト・タイガースに対して1-0の1安打完封勝利を挙げる。ルースは1942年にこの試合を「現役生活で一番興奮した試合」と振り返っている。 翌1918年は20試合に投げ、13勝7敗・防御率2.22を挙げる。また、11本塁打を放って生涯初となる本塁打王のタイトルを獲得した。これは2013年現在メジャー唯一となる「同一年度での10勝かつ10本塁打」でもあった。この年以降ルースは主に外野手として起用された。チームはワールドシリーズに出場し、ルースは第1戦と第4戦の先発投手を任された。両試合ともに勝ち星を挙げ、17回を投げ自責点2、防御率は1.06であった。ワールドシリーズでの連続無失点イニング数は29回と3分の2を記録し、これはホワイティ・フォードが1961年に破るまでMLB記録であった。

打者としての台頭

1915年から1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのはたったの44試合であった。1917年のシーズン終了後、チームメイトであったハリー・フーパーは、ルースは野手として毎日試合に出場した方が価値は上がる、と提言をしている。 ルースが外野を守る回数が増え、登板する機会が減っていったのは1918年からである。この年、ルースは打率.300に11本塁打をレギュラー野手としては圧倒的に少ない317打数で達成している。そして1919年には、130試合に出場もたったの17試合にしか登板しなかった。この年に放った29本塁打は当時のMLB記録である。ルースの名声が高まるとともに、彼の胴回りも広がっていった。オリオールズ時代のチームメイトは、ルースの胃袋の大きさに驚き、1919年には、彼の肉体は1916年当時の背の高いアスリートらしい姿から、現在でもよく知られるとおりの丸々と太った体型に変化していた。こうした酒樽のような上半身に対し、筋肉質の下半身はおかしなほど細く見えたが、2桁盗塁を5回記録するなど、走者としても野手としても問題はなかった。タイ・カッブも後年、ルースを「太っている割には走るのが速かった」と述べている。

ヤンキース時代

ニューヨーク・ヤンキース時代(1920年) ヤンキースに移籍後のルースは、投手から打者へともはや完全に移行していた。ヤンキースでの15年間で2000試合以上に出場したが、投手としてマウンドに上がったのはそのうちのわずか5回である。ちなみに、その全てで勝ち投手となっており、登板は元投手であるベーブ・ルースのデモンストレーションやファンサービスの意味合いが強かった。 ヤンキースでのデビュー年となった1920年には、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないだろう。去年が異常だっただけであれほどの本塁打数は期待できない。20本打てれば上出来だろうと言われながら、ルースは打率.376、54本塁打を記録し、周囲を驚嘆させる。同年に記録した長打率.847は、2001年までMLB記録であった。この年にルースが放った54本塁打というのは異常な数値であり、2位はセントルイス・ブラウンズの強打者、ジョージ・シスラーの19本と、約3倍の差で突き放す圧倒的な数だった。また、ルースよりも多く本塁打を打ったチームはフィラデルフィア・フィリーズのみであった(64本)。 1921年は、もうこれ以上の本塁打記録は生まれないと言われた本塁打記録をさらに更新。ルースは打率.378、59本塁打を記録し、ヤンキースをチーム史上初のリーグ優勝に導く。7月18日には、現役通算139本目の本塁打を放ち、それまでの通算本塁打王だったロジャー・コナーの記録をたった8年のプロ生活で更新する。ルースの名前はもはや本塁打の同義語として扱われ、野球というスポーツ自体に新しくパワーの概念を導入した。 1922年5月20日に処分が解けたルースは、ヤンキースのキャプテンに就任する。しかし、その5日後に、審判に泥を投げて退場処分を受け、更には観客と乱闘をするという醜態を晒したために、キャプテン職は剥奪された。同年、ルースは110試合に出場し、打率.315、35本塁打、99打点を記録する。この年もヤンキースはワールドシリーズに出場し、再度ニューヨーク・ジャイアンツと戦うが、またもチームは敗退。ジャイアンツの監督ジョン・マグローは自チームの投手に「ルースにはカーブしか投げるな」と伝え、これが功を奏してルースは17打席でわずか2安打という大スランプでシリーズを終えた。 1923年シーズンをルースは自己最高打率.393、41本塁打を記録。この年も3年連続でワールドシリーズの組み合わせがヤンキース対ジャイアンツになったが、ルースは過去2年間の鬱憤を晴らすかのように猛打が爆発、打率.368、3本塁打に長打率は1.000を記録した。ヤンキースはチーム初のワールドチャンピオンに輝いた。 ルースは1924年も三冠王級の活躍を成し遂げる。打率.378で自身唯一の首位打者に輝くと、MLB1位の46本塁打を記録。121打点はグース・ゴスリンの129にわずかに届かない2位であった。この年、ヤンキースはワシントン・セネターズに2ゲーム差で2位に終わった。 1926年のワールドシリーズでは、ルースは病の床にあった11歳の少年ジョニー・シルベスター(英語版、1915年4月5日 – 1990年1月8日)にホームランを打つことを約束し、実際に打っている。 1927年のヤンキースは歴史的なチームであり、その打線はあまりの強烈ぶりから「殺人打線」と呼ばれていた。チームはリーグ記録となる110勝を達成し、19ゲーム差でリーグ制覇。ワールドシリーズでもピッツバーグ・パイレーツ相手に4連勝でワールドチャンピオンに輝き、見事な形でシーズンを終えた。 ルースの成績もチームのパフォーマンスと比例していた。自身もチーム同様ロケットスタートに成功し、8月1日の時点では42本塁打を放っていた。これは前年の60本ペースをさらに上回るものであった。しかし、シーズン後半には踵の痛みに悩まされ、最後の2カ月ではたったの12本しか本塁打を打つことが出来なかった。また、打率も.323と、彼の通算での平均打率を下回るものだった。しかし、それでも彼はシーズンを54本塁打と、自身4回目の50本塁打を記録することとなった。 1928年のワールドシリーズは、1926年シリーズの再戦となった。対戦相手のカージナルスはホーンスビーがトレードで退団していた以外は2年前のチームとは変わっていなかった。このシリーズでは、ルースが打率.625(ワールドシリーズ史上2位の記録)を記録し、第4戦では再度3本の本塁打を放つ。更にゲーリッグも打率.545を記録し、ヤンキースはカージナルス相手に3連勝を記録。ヤンキースはワールドシリーズでの4連勝(スウィープ)を2年連続で達成した初のチームとなった。

人柄

ルースは子供が大好きで、ファンサービスに熱心だった。ルースの打ったファウルボールがファンの少年の抱いていた子犬に当たって、あとでその子犬を見舞いに行ったこともある。また、ジョニー・シルベスターという病弱な少年の両親が、医者から「何か彼が熱中できることがあれば、元気になれるかもしれない」と言われ、ジョニーが好きだったルースに見舞ってもらおうと無理を承知で球団事務所に電話をして頼んでみると、本当にルースが来てジョニーを驚かせたこともあった。しかもジョニーと翌日の試合で本塁打を打つ約束までしたのである。結果は三打席凡退の後、本塁打を放っている。このジョニーとルースが再会したのは、ルースの晩年、病気のために入院していた時で、かつての病弱な少年はたくましく成長し、海軍に入隊するまでになっていた。 ある時、試合が終わって、ルースが帰りのバスに乗るために球場から出て道路を歩いていた時、路上に停まっていた1台のオープンカーの座席に元気のない少年が座っているのを見て、何気なく「坊や、こんにちは」と声をかけると、少年は目を輝かせてルースの名を叫びながら立ち上がった。すると、周りの人々が驚いたように歓声をあげ、傍にいた親らしき人物は涙を流しながら、「立った、立った!」と叫んでいる。その歓声を聞いてルースは何事かと思ったが、急いでいたのでそのままバスに乗って去って行った。あとで分かったことだが、その少年は小児麻痺のために足の機能が失われ、2年間も立つことができない状態であった。それが、憧れのルースから声をかけられたので、嬉しさのあまり夢中になって立ち上がったのだという。この奇跡の出来事は当時の新聞でも紹介され、「子供たちにとって、ベーブ・ルースという名前はどんな薬よりも良く効く薬のようである」と評された。 友人と共にゴルフ場に行った時には、入口付近でルースを見つめる2,3人の子供の姿を見て、「君らも来いよ。今日はいいプレーができそうだぞ」と誘い、子供たちと談笑しながらラウンドを回り、休憩時にはお菓子とジュースを振る舞ったのだ。 ルースは子供たちの話題には弱かった。ルースが暴飲暴食、不規則な生活で練習を怠け、成績不振の状態が続いていた時、ある議員が「国中の子供たちがラジオに耳を押し付けて、君を英雄のように思いながら君のプレーを楽しみにしているんだ。その英雄がこんな体たらくでいいのか」と詰問した時には、ルースは涙を流して反省し、それまでの生活態度を改めて再び練習に打ち込むようになったというのだ。

背番号

3 (1929年 - 1935年)

獲得タイトル・表彰・記録

アメリカ野球殿堂におかれたルースの銘刻板MVP1回(1923年)

首位打者1回(1924年)

本塁打王12回(1918年 - 1921年、1923年、1924年、1926年 - 1931年)

打点王6回(1919年 - 1921年、1923年、1926年、1928年)

リーグ最高出塁率10回(1919年 - 1921年、1923年、1924年、1926年、1927年、1930年 - 1932年)

リーグ最高長打率13回(1918年 - 1924年、1926年 - 1931年)

リーグ最高OPS13回(1918年 - 1924年、1926年 - 1931年)

最多得点8回(1919年 - 1924年、1926年 - 1928年)

最多四球11回(1920年、1921年、1923年、1924年、1926年 - 1928年、1930年 - 1933年)

通算サヨナラ本塁打12本

通算満塁本塁打16本

通算ランニング本塁打10本

最優秀防御率1回(1916年)

ノーヒットノーラン(1917年)(アーニー・ショアとの継投による達成、ただしルースは1回先頭打者への四球の判定に抗議し退場したため1アウトもとっておらず、代わったショアが残りを完全に抑えた)

DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)


参考

『Wikipedia』[1]

HN SWY


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成