宗教9
出典: Jinkawiki
宗教とは
≪宗教とは何か~様々な宗教~≫ 1. 宗教とは 宗教を大きくわけると、社会的な組織や制度あるいは文化の一種として考える立場と人間の心のあり方の特質として捉える立場の2つがある。社会的文化的な問題とは、教会、寺院、神社、教団などの具体的な組織を通して営まれる行為が注目されることである。一方、心の問題とは、神、仏、精霊、祖霊などと表現されるような、人間を超えた存在を実感したりそれとの交流を求めたりする人間のありようが注目されることである。人間を超えた存在とは、例えば、宇宙の神秘、霊魂の存在や自然の摂理などだ。 2. 宗教の起源 宗教の起源がいつかということはまだ謎だ。人類の最も古い文字の使用が確認されるのは、起源前31世紀頃のメソポタミアのシュメール人の楔形文字である。粘土書板に残された文にも宗教的観念が見いだせる。宗教の最も古い形態としては、トーテミズムやアニミズムである。トーテミズムとは、部族、民族の祖先と考えられる動物、植物などを崇拝することである。アニミズムとは、あらゆる存在の背後に霊的なものを認めることである。次に、複数の神を信仰する多神教があらわれてきた。その次には、一つの神のみを信仰する一神教もあらわれた。 3. 聖典・教典 教典とは、それぞれの宗教の教えが記された書である。神聖な書という側面を強調するときは聖典と呼ばれる。また、仏教では、経典あるいは仏典といわれる。世界宗教には当然教典あるいは聖典がある。例えば、キリスト教には『旧約聖書』『新約聖書』、イスラームには『クルアーン(コーラン)』、仏教には数多くの経典がある。なかでも、仏教はその多くの経典を『大蔵経』として集成した。これは一切経ともいわれるが、きわめて膨大な量である。民族宗教でも教典、聖典をもつことがある。ユダヤ教には『トーラー』『タルムード』がある。バラモン教では『ヴェーダ』、ヒンドゥー教では『ギータ』が聖典である。また世界宗教以外の創唱宗教でも、独自の教典をもつ。ゾロアスター教の『アヴェスタ』がその例としてあげられる。教典の内容は、多様である。神への啓示、神々への賛歌、民族の伝承や神話、創始者の教えやその言行録、戒律などである。教典、聖典のうち特に重要な部分は、民族あるいは信者たちによって記憶され、暗誦されたりすることが多い。 4. 民族宗教 民族宗教とは、創始者や起源が明確ではなく、民族の形成の中でいつしか出来上がった信仰の状態である。それぞれの民族が伝えてきた神話や伝承、社会的礼儀や慣習となった行為を含んでいる。また、祖先崇拝、シャーマニズム、自然崇拝、あるいはアニミズムといった信仰形態が多く見られる。しかし、ヨーロッパによる植民市化、占領、移民などを経験した国の民族宗教には、古くからの形態が変わったり失われたりしたものが多い。北米や南米の先住民も土着の宗教民族をもっていたが、現在はこれらの地域はキリスト教化して民族宗教は先住民の一部に信じられているに過ぎない。また、メキシコのアステカ宗教のように、滅ぼされてしまったものもある。民族宗教といっても、その中には民族を越えて広がるものもある。一種の世界宗教的性格を見せるのである。これはその民族の文化自体の影響力の大きさともいえる。ヒンドゥー教は、インド以外にも南アジア、東南アジアに広まり、ヒンドゥー・仏教文化というようなものが伝えられた。例えば、古代インドの英雄ラーマ王に関する伝説である「ラーマーヤナ」は、インドネシアなどにも影響を与えている。道教も漢民族を越えて、東アジアに広く影響していった。道教教団こそ伝えられなかったものの、朝鮮半島、日本では 道教の諸観念が大きな影響をもたらした。護符、占いなどは、もともと道教と深いかかわりをもち、これらは今日、日本や韓国でも民族や習俗にとけこんでいる。 5. 創唱宗教 民族の歴史の中で自然と形成された宗教と違い、明確な創始者をもつ宗教が創唱宗教である。創始者がいるということは、中心的な考えが何かがはっきりしており、その宗教の始まったのがいつ頃かも明確である。代表的なものは、キリスト教、イスラーム、仏教である。しかし、こうした世界的に広まった宗教だけでなく、ローカルな小さな宗教でも創唱宗教と呼ぶべきものは多い。この場合の創始者というのは、ある宗教の改革者とか、分派のリーダーとは異なる。あくまで一つの新しい宗教を創始した人である。したがって、カトリック教会に対抗して結果的にプロテスタントという分派を生むきっかけを作ったルター、カルバンなどは創始者とはみなされない。創唱宗教は、その宗教が生まれた地域に存在した宗教から多くの影響を受ける。仏教やジャイナ教はバラモン教から、キリスト教はユダヤ教から、イスラームはアラブの民族宗教、さらにユダヤ教とキリスト教から、という具合である。シク教はイスラームとヒンドゥー教の双方から影響を受けている。つまり、創唱宗教は伝統的宗教と断絶しているわけでなく、むしろそれらのイノベーションとして理解できる面が多い。 6.世界宗教の地理的分布 世界宗教とは、キリスト教、イスラーム、仏教のことである。キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、サハラ砂漠以南のアフリカに多い。イスラームは中東を中心に東はインドネシアから西はモロッコまで、アフリカとアジアの赤道を挟む地域に多く広まっている。仏教は、東アジアに多い。キリスト教は、古代にローマ帝国の国教となった関係で、ヨーロッパにおいては圧倒的な地位を占めている。だが、南ヨーロッパはカトリックが多く、東ヨーロッパは正教が多く、西北ヨーロッパにはプロテスタントが多いという違いがある。また、イスラームは中東の王朝の政治的あるいは軍事的支配の拡大にともなって広がっていった関係から、アラビア半島及びその東西に広がる地域に信者が多い。ただし、インドネシアやマレーシアといった東南アジア及び西アフリカのイスラームは、イスラーム商人の交易によって広まった。仏教はインドが発祥であるが、現在インドでは仏教徒は少数派であり、東南アジアと東アジアに多くの仏教徒がいる。かつてインドの仏教文化を中継して東アジアに広めた中国では、度重なる廃物の歴史や、さらに20世紀における共産政権の成立などにより、仏教が主たる宗教ではなくなっている。 7. 世界宗教(キリスト教) イエスは紀元前4年頃、今のイスラエルのガリラヤ地方のナザレに生まれ、紀元後30年頃死亡したとされる。幼少の頃の確かな記録はないが、十字架にかけられて処刑される前の2年余りの現行が、福音書によって知られている。福音書とは、新約聖書のなかで、イエスの言行録を記したとされるマタイ伝、ルカ伝、マルコ伝、ヨハネ伝の4書をさす。このうち、前3書は似たような観点から記述されているので、共観福音書と呼ばれる。父はヨセフ、母はマリアで兄弟姉妹がいたという説もある。イエスの少年時代は、12歳のときエルサレムの神殿で教師たちと問答をし、その賢さに人々が感嘆したという。ヨルダンのほとりで洗礼を受け、やがて教えを説き始め、弟子が集まった。主な活動の地はガリラヤだったが、エルサレムにも何度か行っている。イエスは神の国が近いことを説き、病人を癒したり、悪霊を追い払ったり、死者を蘇らせるなどの奇跡をなしたとされている。だが、ユダヤ教の律法学者やパリサイ派の指導者などは、彼の言動はユダヤ社会の秩序を乱すと感じた。やがてイエスは、弟子であったイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)によって逮捕された。イエスが「神の子」と称していることが瀆神の罪にあたるとして死刑の判決を受けた。しかし当時ユダヤ人は死刑執行権をもたなかったので、ローマの総督ポンティウス・ピラトゥスに反ローマ運動の指導者として訴え、死刑を要求した。ピラトゥスは、イエスを「ユダヤ人の王」すなわち反ローマ的メシアを僭称した者として、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で処刑した。そしてイエスは復活する。宗教的な意味での「復活」とは、死者が蘇ることであるが、キリスト教徒にとっては、特に十字架にかけられたイエスが、死後蘇ったことをさす。これは、単に生き返った、つまり蘇生したということではなくもはや死ぬことのない「栄光の体」として蘇ったことを意味する。このイエスの復活を記念し祝うのがイースター(復活祭)で、キリスト教会歴の祝日では、最も古い。ギリシア語ではパスカと呼ばれたが、これはユダヤ人の過越祭をさすヘブライ語からきている。過越祭とは、イスラエルの民がモーセに率いられ、無事エジプトを脱したことを祝う祭りであった。この祭りの時期にイエスが復活したとされたことによる。一方イースターという言い方は、チュートン語で、春の女神オスターに由来するという説がある。イエスの復活がゲルマン民族に受け入れられたとき、それまでの春分の祭りと融合し、現在の復活祭になったと考えられる。再臨とは、イエスの死後ほどなくうまれた観念で、復活したイエスがふたたびこの世にやってくることを意味する。しかし、その再臨は最後の審判の前ぶれでもある。再臨を信じる人々は再臨派(アドベンチスト)と呼ばれ、古くから存在するが、19世紀になって多くのアドベンチストの運動が出現した。福音書に示された考えでは、復活にも順序がある。最初はイエスが復活したわけであるが、キリストが再臨するとき、キリストを信じる者たちが復活する。最後は非信者も復活するが、それは最後の裁きを受けるためである。信心なき者には、再臨はむしろ恐怖だ。 8. 世界宗教(イスラーム) イスラームはかつてマホメット教、回教、清真教、フィフィ教などとさまざまに呼ばれてきたが、これらは今日ではほとんど用いられない。最近ではアラビア語の発音に近いイスラームという言い方が広がっている。イスラームとは「(神の意志や命令への)絶対帰依、服従」を意味する。また、イスラーム教徒のことをムスリムという。「帰依した者」という意味である。世界に10億人いると推定されているムスリムの信じる神は、アッラーである。イスラームでは偶像崇拝が厳しく禁止されている。モスク(イスラーム寺院)の中にも一切神像は見当たらない。アッラーを何らかの像に刻んだり、絵にかいたりすれば、それはイスラームへの最大の冒瀆のひとつになる。創始者ムハンマドに関しても同様である。偶像崇拝の禁止は実はユダヤ教と共通している。十戒として知られるモーセの教えには、「自分のために、偶像をつくってはならない」とある。また実兄には「あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」ともあるが、この点はイスラームでは異なる。ムスリムはことあるごとに神の名を唱え、神をたたえる。その際、神にはいろいろな形容の言葉をつけるが、代表的なのは、「アッラー・アクバル」(神は偉大なり)などの表現である。イスラームの創始者ムハンマドの誕生には神話化された伝承がある。母アミーナが妊娠中に「汝が産む子は、民族の支配者となり、預言者となるであろう」という声を夢うつつに聞いたなどという話である。だが、実際ムハンマドの前半生はつらいものであった。父アブドッラーは彼の誕生前に死去し、6歳のとき母も死去して、幼くして孤児となった。祖父に育てられるが、祖父もほどなく死去し、叔父のアブー・ターリブに育てられた。25歳の時、ハディージャと結婚し、ようやく落ち着いた家庭を得た。40歳になるころムハンマドは年に1回は、マッカ近郊のヒラー山の洞窟で祈りと瞑想にふけるようになっていった。610年のある夜、突然天使ガブリエルがあらわれ、ムハンマドは最初の啓示を受ける。ほどなく、まわりに教えを伝えるようになったが、すぐに嘲笑と反感、迫害が起こった。しかし、妻ハディージャや身内の者が入信し、次いで若者たちが信者となっていった。ところが、619年に有力な支持者であった叔父と妻が死去し、迫害もひどくなったので、ムハンマドはマッカでの伝道を一時断念し、622年にメディナへ逃れた。これは、ヒジュラとして知られる。この年がイスラーム暦の元年とされている。当時の信者はマッカ、メディナあわせても150人ほどだった。ムハンマドはメディナでウンマと呼ばれる信仰共同体を形成し、2度目の妻アーイシャと結婚した。624年には信者とともにマッカを攻撃し、最終的に630年にアーイシャの膝に頭を抱かれて死去した。 9. 世界宗教(仏教) 仏教の創始者であるゴータマ・シッダッタは、お釈迦様、釈尊、ブッダなどさまざまに呼ばれる。ブッダとは悟った人の意味で、釈尊とは釈迦族の聖者という意味である。その一生については、確かな事実を知り得るわけではない。ブッダの伝記が文字に記されるのは、没後数百年経ってからである。仏教徒たちが描いてきたブッダ像は、おおよそ次のようなものである。ブッダは釈迦族の王子として生まれた。結婚し、一子をもうけたが、29歳のときに出家した。はじめは他の修行者にならって6~7年間苦行をするが、悟りを得られず、ひとり静かに坐って瞑想を行い、35歳のころ悟りを得た。そして「如来」と称した。修行を完成した人という意味である。悟りを得たのが12月8日のことであるとされ、これを記念するのが成道会である。それから80歳で死ぬまで各地で自分の悟った教えを説いてまわった。 10. 現代世界の宗教 第二次大戦後、主に先進国で宗教の力が弱まっていった。ヨーロッパのキリスト教国では教会に行く人が減り、行ったとしても信仰からというより習慣でという人が増えた。神父や牧師の影響力も落ちた。宗教社会学者はこの現象を世俗化と呼んだ。宗教の社会的機能は限られたものになった。全体として宗教は衰退に向かっているとみなされた。ところが、1970年代あたりから、世界的に、宗教は政治をも動かす底力をふたたびみせた。ファンダメンタリズムと呼ばれる勢力が、アメリカやイスラーム世界で目立った。新宗教運動は日本や西欧諸国においても、一定の社会的地位を占めるものがでてきた。科学文明の進歩、高等教育の普及は、人々の思考法を合理的なも
[参考文献]
・池上彰、『図解池上彰の世界の宗教が面白いほどわかる本』、2013
・井上順孝、『図解雑学宗教』、2011