マザー・テレサ3
出典: Jinkawiki
マザーテレサ
<マザーテレサの誕生> マザーテレサは1910年8月26日、マケドニアのスコピエで生まれた。父は二コラ=ボヤジュ、母はドラナフィル=ボヤジュ。両親はどちらも敬虔なクリスチャン。姉アギー、兄のラザールの後に、3番目の子として誕生した。翌27日に洗礼を受け、アグネス=ゴンジャと名付けられる。「アグネス」とはキリスト教初代教会の乙女殉教者の名であり、「ゴンジャ」はアルバニア語で「花の蕾」を意味するという。家族は特に彼女のことを「バラの蕾」と考えていたようである。なぜなら、母の名が「バラ」を意味するからである。ちなみに「マザーテレサ」は修道女としての呼び名である。
<少女時代> マザーテレサは名前の通り、ふくよかで、ぽっちゃりしたかわいい女の子だった。素直できれい好き、年の割には感受性が強く、曲がったことは大嫌い、しかし気立ての優しい子であった。 就学年齢になると、ボヤジュ家の子どもたちは聖心教会のホールにある小学校に通った。教会の若者たちのグループ活動の音楽会・読書会・黙想会に積極的に関わる青春時代を送る。
<父の死> 1919年、突然ボヤジュ一家に不幸が襲い掛かる。父が45歳の若さで急死してしまうのだ。朝は元気に出かけていったのに、突然、血を吐き、帰らぬ人となった。周りの人はその死に釈然としないものを感じ、毒殺の疑いさえもったという。さらに、父の死を契機に、ボヤジュ家の資産は共同経営者に横領されてしまう。豊かだったボヤジュ家に残された財産は、住む家だけというありさまになった。
< ダージリンへの道中、汽車の中で「神の声」を聞き、修道会を出て、貧しい人、困っている人たちを助けることを決意する。その後、カルカッタにあるスラム街に移り住む。そして、孤児やハンセン病の人々の為に救済活動を始める。 とても貧しい人に奉仕する「神の愛の宣教者会」を開設する。その頃から、マザーテレサと呼ばれるようになる。そして、1950年にインド国籍を取得する。1952年に行き倒れの人々や重症の人々を収容する「死を待つ人々の家」を設立した。
<マザーテレサの原動力> マザーテレサのいのちの中心にキリストの渇きがある。だから、世界中のマザーの修道院では、聖堂の壁にかけられた十字架像のそばに「われ、渇く」というひとことが書き添えられている。キリストは受難において、渇いた。人間が愛のうちに生きることを切望した。この渇きこそがマザーの原動力である。
<マザーテレサの最期> 1997年9月5日午後9時30分、マザーテレサは87歳の生涯に幕を閉じた。当時、世界中のニュースは一週間前に交通事故で亡くなった英国皇太子妃、ダイアナの話でもちきりだった。その陰に隠れるかのように、できるだけ目立たないようにこの世を去った。マザーテレサらしい最期だったといえよう。 当初、神の愛の宣教者会は葬儀を9月10日に行うと発表していた。9月10日はインスピレーションの日、マザーテレサがダージリンに行く汽車の中で神の声を聞いた日であり、それこそ彼女の出発点となった日である。そして、マザーテレサの愛したシスター方や、親のない子どもたち、ハンセン病の人たちや貧しい人たちに囲まれて、惜しまれ、祝福されて、悲しみと感謝の嵐の中、静かに旅立っていくのがマザーテレサにはふさわしいと思われていたが、マザーテレサの葬式はインド政府の申し出によって、国葬の準備が整う9月13日に行われることとなった。
<最後に…> マザーテレサを知れば知るほど、彼女以上の人はいないし、ほかに比べようのない特別な人だという印象が強くなる。地に足がついた人でありながら、この世にとらわれることはなく、キリストに仕えることをすべてとして生きた人。世界中で宗教を信じる人にすっとこころを通わせる人。世界の最も惨めな場所に出向き立ち向かいながら、明るさ、輝きを届けた人。マザーテレサは全生涯を捧げて、ひとりひとりに命の連帯の輪を広げていった、世界中で誇られるひとである。
参考文献:http://contest.japias.jp/tqj2000/30262/content/mother3.html 「マザー・テレサの真実」五十嵐薫/2007.5.7/出版PHP研究所 「マザーテレサ」和田町子/1994.9.30第1刷発行2015.9.10新装版第1刷発行/清水書院 「マザー・テレサ 愛の花束~身近な小さなことに誠実に、親切に~」中井俊巳/2003.10.1第1版第1刷発行/PHP研究所