ロシア革命3
出典: Jinkawiki
目次 |
ロシアについて
1917年にロシア帝国で起きた二月革命と十月革命のこと。これによってロシア帝国は崩壊し、その後ロシアは世界初の社会主義国を樹立することになる。
1900年のペテルブルクと世界
1900年ごろにはロシア帝国は体制の転換だけでは克服しがたい困難に直面していた。 サンクト・ペテルブルクから見て帝国国境の外の世界はいまだかつてこれほど脅威を与えるものに思われることはなかった。ヨーロッパの平和は移りやすいものであり、フランスとプロシアという二大大国は1890年に互いに戦争に突入した。統一国家を作り上げることでドイツは大陸の中央地域での政治と貿易における優位性を獲得した。またドイツの盟邦であるオーストラリア=ハンガリーは、バルカン諸国でより大きな影響力を行使すべく奮闘していた。安全保障のためロシアは1894年にフランスとの同盟に進んで調印した。しかしドイツ政府はまた、ペルシアと近東で攻勢を挑み外交的危機が再燃した。そのうえ極東では日本が急速な工業化を成し遂げ ロシアに対するもう一つの地域的な競合相手となった。 中国は最大の獲物でありロシアは中国北部を自らの勢力圏に置くという同意を強引に獲得した。 ウクライナ、シベリア、バルト、ポーランド、ザカフカースの血が征服されていた。1870年にいたるまで中央アジア諸地域を征服するために軍隊が派遣されていた. そして解体に瀕していたオスマン帝国に対してはサンクト・ペテルブルクの大臣たちは、ダーダネルス海峡を獲得しようと野望を抱いていた。
1950年以前のロマノフ君主制
ロシア帝国は専制君主制によって統治されていた。1613年以来ロマノフ朝が統治しており選挙による代議制の議会と権力を分かち合った皇帝は19世紀には一人もいなかった。 政党は禁止され、公開の集計は厳しく統制され発効前の刊行物の事前検閲が行われた。反乱はまれであり1762年と1801年に皇帝の殺害が起こった。しかしそれは一人の帝位在位者を別の人物と取り換えたクーデターであった。エカチェリーナ2世に反対して1773年にエメリヤン・プガチョフによって引き起こされた民衆反乱は失敗に終わったがそれでさえ根本的な改革の目標を持っていなかった。1825年になって初めて真に革命的な組織が作られた。それは軍将校とほかの貴族たちと陰謀という形をとった。そしてそれもまた容易に粉砕された。1826年に戴冠したニコライ1世と、彼の後継者のアレクサンドル2世は絶大な権力を保持した。皇帝の個人崇拝が促進されおおむね効果的だった。皇帝の言葉は全くの文字通りに法律であった。簡単な口頭での訓令があらゆる法令を無効にし君主の気まぐれが鵜力をふるった。ロシア帝国は警備国家であっただけでなく極めて恣意的に支配される国家でもあった。
社会的不満
都市では労働階級が成長するに伴って多数の問題が起こるようになった。住宅は劣悪であった。大多数の労働者にとって選ぶことができたのは会社の陰気なバラックか、あるいは値段が高く非衛生で過密な賃貸であった。世紀転換期までにイギリスやドイツなどの国々の労働者の一部が多少ともより快適な生活を送り始めた一方で西ヨーロッパにさえひどく困窮した地域があった。ミラノの労働者のほとんどはサンクト・ペテルブルクの労働者より売らし向きがよかったわけではなく、この二つの都市では反抗精神が旺盛であった。すべてのロシアの労働者が反抗者であったわけではない。騒擾が起こったのはほとんどの場合は村からやってきた未熟練で経験を持たない若者のせいで彼らが都市に押し寄せて時折手に負えない暴動になった。と非難された。劣悪な状態と高まる期待とはイギリス、フランスやドイツでこの時期に社会的不穏を生み出していた。世紀が変わる前ロシアのストライキは甚だ大きいわけではなく1899年は10年間の工業紛争のうちで最高潮に達した年であったがそれでもストライキ参加者は9万7000人であった。クラークという名で知られる富裕な農民はほかの農民を労働者として雇用したり金貸しになったりした。ロシア農民の貧民は、アイルランドやドイツと同じように哀れなほどの貧しかった。農民の土地飢餓はほとんど普遍的であり土地所有貴族は是が非でもその土地を農民に譲渡さなければならないという信念を農民は強く抱いていた。農村の秩序を維持する責任を負いしばしば貴族から選出された「地方監督官」の制度はさらに農民を煩わせる原因となった。
政治的不安定
1912年には2032件のストライキが発生した。ストライキ噴出のタイミングは雇用機会を増加し雇用者に立ち向かうことへの恐れを弱めた好景気に影響を受けた。また長く続いている勤労民衆の不満は労働生産性を引き上げるために1905年以降に工場に導入された変化によってより激しいものになった。賃金は西ヨーロッパの標準に比べて低かった。しかし住宅や技能養成の提供という点で考量した労働総経費はずっと高かった。政府がブルジョワに加担しているのではないかというなかなか消えない疑念は、1912年四月にレナ金鉱で起こったストライキ中の労働者に対する発砲事件によってそうであったことがはっきり示された。1914年の前半だけで3000件以上のストライキがありそのうちの三分の二が政治的要求を掲げていた。多くのストライキ参加者は民主共和国、八時間労働日および地主所有地の接収を要求した。これらのスローガンはウラジミール、レーニンやレ・トロッキーの支持者のような非妥協的なマルクス主義に支持された。ほとんどの労働者はマルクス主義の協議に通じていなかった。1914年夏、サンクト・ペテルブルクで君主制に反対する巨大なデモンストレーションが発生。それは鎮圧され革命情勢は先手をとられ封じられたが、しかし政治体制のもろさは今一度明らかにされた。
戦争と強まりゆく経済危機
ポリシェヴィキ指導者の機敏さと大胆さ、そして彼らを支えたとともに彼らが勤労民衆の間で助長したユートピア主義とによって引き起こされた。戦闘が1915年に続くにつれて、ロシア軍は塹壕戦に十分に順応。しかし東部戦線に兵員、軍需物資や食料を優先的に輸送することなったとき、鉄道は負担過重になり十分な補修が行われず。1914年と1915年の豊作に続いて1916年には第一次世界大戦の5年間の年平均生産量に比べて穀物生産が10%減少した。工場の状態は問題を大きくした。農機具の生産は戦前水準の15%まで落ち込んだ。1916年までに機械製造業のほぼ五分の四は帝国軍の必要に充当されていた。概して工業はこの点で国家需要を満たしており、多数の工場が軍需工場に転換された。その結果民需市場向け生産が損害を被った。戦争関連にかかわっていない工場はどれも原材料を入手することは困難だった。ウクライナを基盤としていた支配的な鉱山カルテルのプロダメトが中・小規模工場に十分な鉄を販売しなかったためにそれらは混乱に陥った。鉄道の損耗状態は事態を早くも悪化させ,1915年には燃料と金属とが不足し始めた。
社会的騒乱
ロシアの参戦はしばらくの間政治的小康状態をもたらし、多くの革命活動家さえも中央列強を打倒するという一般的な希望を共有した。しかし経済的崩壊はとどまるところを知らず労働者と守備隊兵士は飢えつつあった。1916年末までにそうした労働者は350万人であったが、勤労男性の四分の一が徴兵によって軍隊に行ったことは工業雇用への労働力流入が見かけよりもはるかに著しいものであったことを意味した。金属加工工場では実質賃金が幾分上昇した。しかし他の工場では実質賃金は低下した。一方で雇用者は日常の仕事を一層強化し安全基準を維持することを怠った。そのうえ高給取りの熟練金属労働者はどれだけたくさん稼いでも商店の棚に届いただけの品物を買うことしかできなかった。食料品の小売取引高はひどく減少した。そして労働者は体制の打倒を求める立場に復帰した。1915年末と1916年末にはストライキの波がロシアの公式筋を攻撃した。ロシアでは医師、法律家、教師及び他の「自由専門職」層の人々が戦前よりも一段と国家官僚機構にうんざりしていた。人々はラスプーチンとアレクサンドラ皇后の親交を不愉快に感じた。工業の雇用者は結束力を持つ集団ではなくペトログラードの工場を事業の基盤としていた。収益の多い戦時契約を結んでいる雇用者はかなり満足していたが、ほかのところでは不満が強かった。 ニコライ2世は地主貴族からさえも大きな支持を当てにすることができなくなり彼らの息子たちは東部戦線の軍将校となって矢継ぎ早に戦死していた。そしてその交代に塹壕に入った要因は君主制への忠誠心がより低い貴族身分以外の人々になる傾向があった。一方経済事業が悪化するにつれて農村の地主の士気が急速に低下した。強壮な成年男子を1400万人も徴兵したことで平均的農民世帯が養わなければならない口数が減少し、このことによって農民が地主所有地で働いたり地主に高額の地代を払ったりすべき金銭的な圧力が軽減された。1916年までには連合貴族団評議会の指導者さえも体制の改変があるいは望ましいかもしれないと論じていた。警察は地下の革命政党に深く潜入していたが政治的な反対勢力は生き残った。ドゥーマ内の自由主義者と保守グループとの間の交渉は1915年にはカデット、オクチャブリスト、進歩党からなる「進歩ブロック」を形成する合意をもたらした。これは不満をもった専門職層や地主及び企業家の意見を共同で表明することを容易にした。
二月革命
ニコライ2世に対するクーデターについての進歩ブロックの見解は議論する段階に達していなかった。労働者組織は君主制の一層危険な反対者であった。少なからぬ企業家は戦時工業委員会に代表を送ることを工場労働者に認め続けるのは賢明ではない。と考えた。政府は1916年末にストライキを精力的に抑圧した。また政府は帝国軍に徴用されることに反抗的なムスリムが中央アジアで起こした反乱を鎮圧した。1917年二月にはプチーロフ兵器工場で紛争が発生した。それから女性繊維労働者がストライキを行いそしてデモが首都の往来に満ち満ちた。ペトログラード守備隊が反乱を起こした。皇帝は前線司令部に武装部隊の援軍を求めたがすでに遅く、君主への幻滅はモギリョフの大本営にさえ広まり皇帝への忠誠心は消え失せていた。二月の出来事は複合的で労働者が暴動をおこし兵士はそれを鎮圧することを拒否した。街頭にいた中級の命令執行者が現状を維持するために暴力を用いる意思を失ったことが重要な原因だった。3月2日、当惑したニコライ2世は退位することを同意。臨時政府の組織に取り掛かっていたドゥーマの政治家グループによって最後の圧力が加えられた。内閣で優位を占めたのは進歩ブロックの支持者でカデットが多数派であった。閣僚たちは言論、集会及び結社の市民的自由を交付することを提議し成人普通選挙による憲法制定会議の選挙を実施することを約束した。彼らはまた農業改革を法令で定めることを拒否した。1917年の出来事は労働者と農民に対する恐怖を募らせることになった。 ゲオルギー・リヴォフが首相となり、彼の首相就任は皇帝に退位を促した自由主義的圧力のおかげだけでなくソヴィエトの黙認のおかげでもあった。
社会が切望したもの
労働者は民主共和国、八時間労働日そしてより高額な賃金を望んでいた。二月革命の最初の日にすでに自分たちの決意を示しつつあった。管理と専門職についている人々はそれほど大きな問題を起こさなかった。農民は比較的平穏であったが土地を欲していた。
二重権力
1917年二月以前はわずかに数千の党員を数えるに過ぎなかったメンシェヴィキは2月革命後にたちまち大衆政党となり、秋までには20万の党員を獲得した。エスエルは都市とともに農村で党員を集め100万人の党員数を誇ってあっさりと最大の政党になった。エスエルはすべての「勤労人民」(農民だけでなく)によるすべての「勤労人民」のための革命を目指した。
ポリシェヴィキ
ポリシェヴィキは旧ロシア帝国内及び世界中での民族自決を要求し、国内での彼らの経済的目標には大規模工業企業とすべての銀行の政府所有が含まれていた。またもう一つの意図したことは土地の国有化であった。ポリシェヴィキ党は緩やかに組織されていった。公式の規約によれば一般党員、党活動家、党職員及び下級党組織は上級組織指令に従わなければならなかった。しかし党指導者のウラジミール・レーニンも中央委員会下部の従順さを獲得で生きたわけではなかった。かなりの程度、説得が重要な要素であった。同様に決め手となったのは基本的な直接目標についてほとんどすべてのポリシェヴィキの意見がいっちしていたことであった。1917年夏にはポリシェヴィキであると自認していたのは数千人であった。夏の終わりまでにはこの数字は2万5000人に達した、と幾分誇張をもって主張された。ポリシェヴィキは非常に「民主的な」理念と非常に「権威主義的な」理念とが施行の中に存在していた。
国家の解体
ロシア政治の分極化は容赦なく進んだ。そして都市でポリシェヴィキの人気がますにつれて様々な大衆組織におけるポリシェヴィキの代議員も増加した。首都でのトロツキーとコロンタインの逮捕、およびレーニンとジノヴィエフのフィンランドへの逃避行は新聞雑誌上での中傷キャンペーンを伴った。ロシアにおける「勤労人民」の連帯は1917年の間はほかのありうべき境界線を越えたものであった。対照的に民族主義は旧ロシア帝国の辺境地域で成長しつつあった。しかしそれは臨時政府を助けるのではなく妨げるものに役立った。 選挙で選出された独自のラーダ[ウクライナの評議会]がキエフを制した。
十月革命
ポリシェヴィキは民主主義派会議を軽蔑し、社会的綱領の必要性を宣言するのに十分な時間だけそれに参加してそれから退場した。ポリシェヴィキの中央委員会には動きがあまりに早すぎる危険性が感じられ、彼らは抜け目なく直ちに権力を奪取すべしというレーニンの勧告を退けた。彼らはソヴィエトの権力構造における自らの基盤を強化し続けた。10月10日、中央委員会は国家権力の問題を討議した。レーニンはこれに参加するためにひそかにフィンランドから戻っており討論に続いて採択された決議は彼のペンで書かれたものであった。彼は直ちに権力を奪取するように要求した。国家権力を掌握するのを可能にするために蜂起の時期を第2回全ロシア・ソヴィエト大会の開会日に合わせるべきである、というトロツキーの主張がとられた。ペトログラード・ソヴィエトは、軍事革命委員会を通じて守備隊を統制下に置いた。また赤衛隊の労働者は必要な武器と明確な意識とを持っていた。これらの力が冬宮で政府の守備隊を打倒した。民衆蜂起は民衆全体によって組織されることはなく、少数の人々だけが直接に参加した。そして10月中旬までにレーニンはポリシェヴィキが多数派になるという点でロシア中の都市という都市のソヴィエトはペトログラードとモスクワの例に続いている、と主張することができた。第2回ソヴィエト大会は疑いなくポリシェヴィキ党に中央ソヴィエト機関を担当させられるはずだったが、老土砂階級の意見はケレンスキーの解任を支持するほうへ回った。1917年5月に「労働者統制」というスローガンを採択したことはその鮮明な例であった。農民の支持を求める努力も行われ、土地国有化の提案が農村で疑いの目で見られていることに気付いて、レーニンはそれに代えて土地は「全人民」の所有物にならなければならないと言明した。1917年10月25日、臨時政府が解散され権力は第2回全ロシア・ソヴィエト大会に掌握された。
参考文献
- ロシア革命1900~1927 著:ロバート・サービス/約:中嶋 毅
- ロシア革命史 著:リチャード・パイプス/約:西山 克典
HN:RN