ベトナム戦争25
出典: Jinkawiki
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アメリカにとってのベトナム戦争
1917年、アメリカは第一次世界大戦に参戦、連合国を勝利に導いた。第二次世界大戦でも、ドイツ・イタリア・日本などファシズム諸国を壊滅させた。ソ連をはじめとする共産主義陣営との、半世紀近く続いた冷戦でも輝ける勝利者となった。アメリカは20世紀をつうじて、地球規模で行われた三つの戦いのいずれにも勝ちを収めたことになる。ところがそのアメリカが唯一、敗北を味わった場所がある。それが、ベトナム戦争である。 アメリカの戦死者は5万8000人、戦傷者は30万人である。戦死者は南北戦争(1861~1865)の61万8千人、第二次世界大戦(1941~1945)の31万8千人、第一次世界大戦(1917~1918)の11万5千人には及ばないが、朝鮮戦争(1950~1953)の5万4千人をうわまわり、メキシコ戦争(1946~1948)の1万3千人やスペインとの米西戦争(1898)の5400人、独立戦争(1775~1781)の4千人をはるかにうわまわっている。 アメリカがベトナム戦争で費やした戦費は少なくとも1500億ドル、間接経費を含めれば2400億ドルに達する。現在の価値に直せば約5千億~6千億ドルに相当し、景気後退やインフレ、財政赤字、国際収支の悪化などを含めた損害額は9千億ドル以上だという。しかと世界最強国家たる自信を打ち砕かれ、伝統的な価値観に疑問を抱き、国外への関心を失った米国民は、その後も「ベトナム症候群」の呼ばれる敗戦への後遺症に長く苦しめられることになる。
第一次インドシナ戦争
第二次世界大戦頃のベトナム
インドシナは19世紀後半にフランスの植民地となっていた。この頃まさに第二次世界大戦の最中で、中国対立での戦争に身動きが取れなくなっていた日本は、連合国から1937年以来、蒋介石率いる重慶の国民政府(中華民国)に、毎月1万5千トンもの物資のほぼ半分が、ベトナム北部の貿易港ハイフォンから、中越国境沿いのランソン、もしくはさらに内陸に入ったラオカイを経由する二つの陸路で北に運ばれているのを知り、中国大陸での戦局打開にはこのルート遮断が不可欠だと判断した。また、インドシナのゴム、鉄鉱石、スズ、石炭、木材、米なども日本にとってはとても魅力的なものだったし、将来の南進をめざす海や空の基地、補給の拠点、海運の中継地としてもこの半島は極めて役に立ちそうだと日本は思った。1940年9月23日、日本は北部インドシナの進駐に踏み切った。6月にはフランス本国がドイツに降伏していたから、インドシナのフランス当局は軍事的に日本に圧迫され、経済的にも一次産品の輸出先を失い、日本の言いなりだった。だかこの、いわゆる仏印進駐の4日後に日独伊三国同盟が締結されたことがアメリカを強く刺激した。アメリカは中国への借款を増額し、鉄類の対日輸出を禁止した。しかし翌年7月28日、日本はアメリカの圧迫をも気にせず、インドシナ南部も手中におさめていた。アメリカはそれまで武器援助を含むインドシナへの直接支援を控えていた。まだ国民の危機感も薄く、戦争への備えも十分ではなかったからだ。だがアメリカこそ「民主主義の兵器廠」だと自認し、ファシズムとの対決姿勢を強めるフランクリン・ローズベルト大統領は、この日本の南進の第一歩を放置すればアメリカと太平洋の安全に重大な影響が生じるとはんだんした。そこで在米日本資産を凍結したうえで、日本への石油輸出も止めた。アメリカ・イギリス・中国・オランダの「ABCD包囲網」に直面した日本は、ついに対米開戦を決意する。
フランスへの妥協
アメリカ大統領ローズベルトは第二次世界大戦の戦後処理原則の一つに民族自決を掲げていた。盟友ウィンストン・チャーチル英首相の反対を押し切って、1941年8月の大西洋憲章にもこれを明記している。だから日本降伏後にインドシナが再びフランスの植民地となることなど承明できなかったがフランスはインドシナを含む海外植民地をあくまで帝国の領土として守り抜く構えだった。今後も大国としてフランスが重きをなすために、また国内復興のためにも、植民地は絶対にてばなせなかったのである。ドイツとの戦いがまだ続く以上、アメリカは彼らの事情にも配慮しなければならなかった。1945年4月、そのローズベルトの死で、ハリー・トルーマンが大統領に昇格した。それまで政権内で重要な役割を与えられず、外交分野にもあまり関わらなかった新大統領に向かって、国務省極東局はインドシナの完全独立によってアジアの民族主義を、味方につけるべきだと訴えたが、9月に訪問したド=ゴールに向かってトルーマン大統領は、アメリカはフランスのインドシナ復帰を妨げないと約束した。フランス軍をインドシナに送り届けたのはただならぬアメリカ軍の輸送船だった。インドやマラヤ(現マレーシア)などへの独立運動の飛び火を恐れるイギリスも、フランス側にたった。日本に報復を勧告したポツダム会談の合意に基づいて、北緯16度以南を占領した英軍は、フランス軍将兵に武器を与え、独立運動の弾圧を助けた。だが、9月2日には、ベトナム民主共和国が独立していた。ハノイから世界に向かって独立を宣言したのは、かねて民族独立を目指して活動を続け、インドシナ共産党(のちベトナム労働力党)やベトミン(ベトナム独立同盟)を率いるホー・チ・ミンだった。ホーは新国家の承認を繰り返しトルーマンに求め、日露戦争でロシアのバルチック艦隊が寄港した、ベトナム南部の天然の良港カムラン湾を、海軍基地としてアメリカに提供してもいいとまで言った。創設まもない国連に対しても、植民地支配の実態や自分たちの統治ぶりを訴え、公正な解決を依頼したが、すべて無駄だった。
分断国家
1946年初めまでにベトナムの主要都市をほぼ確保したフランス軍は、たいして実体のない民主共和国の存在など歯牙にもかけず、支配地域の拡大だけに専念した。もしベトミン軍との対決になったとしても1週間もあれば楽々勝利を得られると自信満々だった。11月20日、フランス軍は、ハイフォンでベトミン軍を攻撃、艦砲射撃で6千人もの命を奪った。しかもこれを「軍事行動」ではなく「警察行動」にすぎなきと言った。12月19日、ベトミンは一斉に反撃を開始した。ここに第一次インドシナ戦争が始まる。形成挽回のためフランスは、大勝負に挑もうとした。その舞台がベトナムの北西部、ラオスとの国境にほど近いディエンビエンフーであるをここはラオス~ベトナム間のベトミン軍の輸送路を遮断シワ、ベトナム北部山岳地帯に展開する敵を、圧迫できる位置にあった。1953年秋、フランス軍1万6千人が要塞にてたてこもり、ジャングルに潜むベトミン軍をおびき出す餌としてはこれほど効果的なものはなかった。みな自信にあふれていた。ベトミンの連中は貧弱な武器しか持っていない。大砲があってもろくに使いこなせない。盆地を取り除く山々にそれらを運び上げる能力もない、というわけである。しかしベトミン軍はジャングルを切り開き、自転車、馬、水牛、手押し車などを使い、人海戦術で武器や食糧、大小500問近い大砲を山上にひっぱりあげた。その結果、ほぼ5対1の優位に立つことができた。五万人近い兵力を周囲に展開したベトミン軍は、1954年3月13日に総攻撃を開始した。砲撃を想定していなかったフランス軍の掩蔽軍は不十分で、雨季が訪れると水に浸かり、泥に埋まり、死体の悪臭で満ちた。飛行場を敵に捉えられると、食糧や弾薬などの補給も負傷者の撤収も不可能になった。そして議会の支持も、最も重視された同盟国イギリスの同調も得られないまま、ついに断念せざるえなかった。ほぼ3ヶ月にも及ぶジュネーブ会議を経て、7月21日に休戦が成立した。平和は回復したものの、ベトナムは事実上南北に分断され、分断国家が生まれた。アメリカは反共反仏の民族主義者ゴ・ジン・ジェムを擁立、北緯17度線の南を共産勢力封じ込めの強力な盾に仕立てようとした。フランスの影響力を排除しつつ、ベトナム国をベトナム共和国(南ベトナム)に造り替えた。その結果、1957年に訪米したジェム大統領が述べたように、北緯17度線は文字通り「アメリカのフロンティア」となった。
本格化する民族解放戦争
南ベトナムでの反乱
北と南、二つのベトナムの共存は長続きしなかった。アメリカは北緯17度線を、共産主義と自由主義の境界線であると同時に、共産主義の体制である北ベトナムと自由世界を信奉する南ベトナムとが接する「国境」でもある、と考えていた。その固定化に執着したアメリカは、共産主義の勢力の浸透、攻撃も常にこの「国境」=「17度線」を超えて「南下」するもの、言い換えれば北ベトナムからの南ベトナムへの浸透と信じて疑わなかった。しかし南ベトナムの農村で起こっている反政府反乱は、北ベトナムからの浸透勢力がそそのかしたからでなく、まさにゴ・ディン・ジェム政権の悪政(農地改革の失敗、元ベトミンなどの反政府活動家への武力重圧、五万人一族による独裁体制)の結果きら噴出しているのであり、反乱の指導者も参加者も基本的にその村の出身者であった。あわせて、そのジェムを擁立して南ベトナムの”安定”をはかろうとするアメリカの愚行をも、批判した。つまり、南ベトナムでの反乱行為は北ベトナムからの指示があって反乱行為をしたのではなく南ベトナムの国民が政権に不満を持って反乱行為をしていると考える。
ケネディとゲリラ戦
1959年、北ベトナムは武力による祖国統一を決断した。1960年の1年間を通じて、南ベトナム国内で誘拐もしくは殺害された政府や軍関係者は3300人。閉鎖された小学校は200。破壊された橋は240。国土の6割近くはすでに共産主義者の支配下にあった。この年の初めホワイトハウス入りしたジョン・ケネディは、このままではベトナムは一年も経たないうちに共産化するのではと悲観していた。ケネディはベトナムには1961年1月28日までに、反乱鎮圧計画(CIP)が作成された。その内容は経済援助の増大、南ベトナム軍の拡充、米軍事援助顧問団の強化、政府の民主化などである。それは大規模な米軍の投入を回避し、紛争の無用な拡大と阻止しながら、南ベトナムに民主主義体制を建設し、十分な自衛力を構築し、自立経済を発展させる、一石数鳥の妙策に見えた。ただ問題は、計画が効果を生むまでベトコンが指をくわえて待っていてくれるとは思えない事だった。ジョンソン政権で駐サイゴン大使をつとめたマックスウェル・テイラー将軍は、ベトナムを「破壊活動による反乱、すなわちホー・チ・ミン戦略がありのあらゆる形をとって試されている、活動中の実験室」と呼んだ。北ベトナムのボー・グエン・ザップ国防相も、この戦いが、「現代の民族解放戦争の雛形」であり、世界中で米帝国主義を打ち破れるかどうかがかかっていると断言した。敵にとっても味方にとっても南ベトナムの戦場はまさに天下分け目の関ヶ原だったのである。ケネディはゲリラに勝利をおさめた過去の経験に着目した。1954年のジュネーブ協定や国際監視委員会(ICC)の存在、国際世論への配慮などから、ゲリラはおおっぴらに北緯17度線を越えにくかった。唯一残されていたのが、南ベトナムとラオス・カンボジアとの2000キロに及ぶ国境を経由する陸路だった。だが、そこには昔から山岳少数民族が利用してきた小道があり、抗仏救国戦争でもゲリラの移動や物資の補給などに使われていた。ゲリラの9割近くはみなみで徴募されていたが、少数ながら北出身の幹部、南出身ではあっても北で訓練をしていたものが敵の中核をなすとアメリカは確信していた。彼らの浸透を阻止するのはまるでざるの無数の網の目を通り抜ける水を捕まえるようなものだった。しかもこの難事業を成し遂げうるのは世界広しといえどもアメリカしかいないはずだった。フルシチョフが民族解放戦争の勝利に自信満々だったように、ケネディも反乱鎮圧戦略の成功を疑いもしなかった。しかしアメリカ軍は南ベトナムのジャングルに村々にはいることをためらっていた。それに代わるものとして、飛行機によって空から毒薬(枯葉剤など)を散布したり、ナパーム弾など砲撃を中心的に投下していた。ゲリラの敵に近づくことなしに、空の高見から彼らを叩くことができる、というこの戦略思想には、空軍力と火力の圧倒的な優位性に対する明らかな過信があり、地上での戦闘における人間的要素の役割に対する軽視があった。ゲリラ戦への逃げ腰である。農民たちの農作業や日々の生活の育み、ゲリラと農民の密やかな活動を覆い隠した木々の緑とそれに囲まれた村落そのものを徹底的に空から破壊することが作戦の内容だった。土をも水をも汚染され、木々を丸坊主にされ、家畜を毒殺され、隠れ家を暴きだされてしまったら、農民とゲリラはどうやって抵抗を継続したのであろうか。
戦争の本格化
1963年3月11日、暗殺されたケネディの後を継いだジョンソンのもとで、戦争はいよいよ本格化する。1964年、アメリカ軍隊が北ベトナム警備船に攻撃を受けた(トンキン湾事件)としそれをきっかけとして1965年3月2日にはローリング・サンダー作戦の名で知られる恒常的な北爆が開始された。225万トンの爆弾が落とされた。(太平洋戦争での日本での爆撃では13万トン)7日には3500人の海兵隊が派遣された。米戦闘部隊の規模は最大時で54万人に達した。しかし1986年1月末、北ベトナムと民族解放戦線にのるテト攻勢で戦意をくじかれた米国民は、「名誉ある撤退」への道の模索を野党・共和党のリチャード・ニクソン副大統領に委ねた。1973年1月27日にパリ協定が成立し、3月29日には米軍がベトナムの地を去った。1975年4月30日には、サイゴンが陥落、ようやくベトナム戦争はおわったのである。
ベトナムが失ったもの
ベトナムの戦死者の総計は300万人にいたり、民間人の犠牲者も400万人を超える。行方不明は少なくとも30万人。枯葉剤の被害者は100万人。精神を病むに至った人は600万人。難民は一千万人に近いとさえいう。投下された爆弾量は朝鮮戦争は311万トンあまり、第二次世界大戦でも610万トンあまり、うち日本には原爆を除けば16万4千トンにすぎない。ところが1965~1973に限っても、インドシナ半島には1400万トンを越す爆弾が降り注いだのである。約33万平方キロしかなきベトナムの国土には、いままでも二千数百万個の穴が口を開けており、なかには湖と見まごうばかりの大きなクレーターもある。200万発にものぼる不発弾や地雷の被害は後を絶たず、地中にも水にも動植物にも人体にも枯葉剤の影響が残る。ベトナムの被害額は3500億ドルをゆうに超える。2000年間11月、ベトナム戦争後初めて訪越したビル・クリントン米大統領は、この戦いを「両国が共有する痛みだ」と表現した。だが、少なくともベトナム人にとって、それは、ほぼ一方的に降りかかってきた災厄というべきものだった。
参考文献
ベトナム戦争~民衆にとっての戦場~吉澤南 著 1997.5.1発行
ベトナム戦争~誤算と誤解の現場~ 松岡完 著 2001.7.25発行
ハンドルネーム:tsuka-99