アドルフ・ヒトラー3

出典: Jinkawiki

2016年8月2日 (火) 23:24 の版; 最新版を表示
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アドルフ・ヒトラー

 ドイツの政治家、軍人、画家である。ヒットラーやヒットレル、ヘトレルと表記されることもある。指導者原理という指導者が被指導者に対し無条件の服従と忠誠を要求する思想を掲げた 国家社会主義ドイツ労働者党と独裁指導体制を築いた。  

政治家への道

 ヒトラーはオーストリアで1889年4月20日に誕生した。青年時代は芸術家を目指していたこともあり、1908年にヒトラーは造形美術大学に入学するためウィーンに出ていた。しかし2回の受験に失敗したヒトラーは5年半ウィーンの街で、自分で描いた絵などを売る仕事をし、過ごしていたのである。なおこの時期に関してはヒトラー自身も多くを語っていないため、絵を描いて売るという生活を送っていただけなのか、他に何をしていたのかははっきりとわかっていない。研究者や歴史家によっては、ウィーンの街にある神秘領域の書物を扱う古書店の主人であり神秘主義者でもあるエルンスト・プレッシュに、『呪師』としての精神や内面的な鍛錬を行っていたのではないかともいわれている。またかつてのヒトラーの唯一の友人であったアウグスト・クビツェクの証言によると、ヒトラーは膨大な数の本を読んでいたという。優れた記憶力で多くの知識を自分のものにし、夜には様々な問題について演説をしていたというのだ。後にヒトラーは家賃の安い「独身男子寮」で生活をすることとなるが、この頃のヒトラーは酒やタバコ、ギャンブル、女遊びなどを一切しない禁欲的な人間であった。

 1913年、ヒトラーはハプスブルク家が統治していたオーストリアに嫌気がさし、ウィーンを離れてドイツの南の中心地であるミュンヘンへ引っ越した。ヒトラーはこの頃はまだ「オーストリア国籍」であり、ヒトラーが正式に「ドイツ国籍」を取得したのは1932年になってからのことである。1914年1月にオーストリア軍の徴兵を忌避したことで罪に問われ、逮捕されてオーストリア総領事館まで連行されたが、栄養失調という検査の結果により不合格となって兵役を免除された。1914年6月28日に「サラエボ事件」というオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻がサラエボでボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプにより暗殺されるという事件が起き、これを機にオーストリアはセルビアに宣戦し、まもなくドイツ、オーストリア、トルコからなる同盟国側、ロシア、フランス、イギリスからなる連合国側と分かれて第一次世界大戦が始まったのである。ヒトラーは7月にドイツが宣戦布告した際に、ドイツ軍に「志願兵」として入隊したのである。この戦争でヒトラーは40以上もの戦闘に参加したとされ、6回もの表彰を受けている。しかし、第一次世界大戦でドイツ帝国は降伏することとなり、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位し、権力を奪われてしまう。第一次世界大戦後、軍の命令によりヒトラーはミュンヘンで結成された秘密結社である「トゥーレ協会」に潜入することとなったが、そこでヒトラーは頭角を現し党首となって政治家への道を突き進むのであった。

 敗戦国ドイツはベルサイユ条約による負担が重く国民にのしかかっていた。ヒトラーの率いるナチスはドイツ民族の優秀さを誇り、自由主義者を攻撃し、ユダヤ人迫害を行った。また、ヒトラーは大衆の感情に訴える宣伝により支持を集めていくのであった。1933年に政権を握ると、民主主義を無視してその他の政党を解散させ、国際連盟から脱退し、再軍備を推進した。これによりドイツは公共事業と軍需産業によって失業を防ぎ、強力な軍事大国となることができたが、個人の自由を奪い、秘密警察によって国民を統制するという徹底的な全体主義国家にも同時としてなってしまったのである。ナチスはソ連を警戒していたイギリスと妥協を図り、これによりヒトラーは領土を拡大していったのである。

参考文献

  • 新編 新しい社会 歴史(2006) 五味文彦・斉藤功・高橋進(代表) 東京書籍
  • 青年ヒトラーの人生:[1]

Y.S


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