北方領土問題2
出典: Jinkawiki
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北方領土
北方領土とは、北海道の北東にある北方4棟(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)のことを指す。
北方領土問題
択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島を不法占拠するロシア(旧ソ連)に対し、日本が返還を求めている問題。第二次世界大戦末期、ソ連は当時まだ有効だった日ソ中立条約を破棄し、1945年8月9日に日本の領土だった満州国などに侵入。その後、4島を占領した。日本政府は戦後、一貫して返還を求めているが、ソ連崩壊(1991年)後のロシアも基本的な姿勢は変えておらず、返還に応じる気配はない。このため、戦後70年経った現在もロシアとの間には平和条約は結ばれず、日本が抱える最大の領土問題となっている。
北方領土問題のきっかけ
北方4島を先に発見したのは日本であった。19世紀初期までに多くの日本人が渡航し、実効支配を確立していた。ロシアとの間で最初に結んだ条約は、開国直後の日露通好条約(1855年)である。この時、択捉島とその北にあるウルップ島の間を国境とすることで合意した。北方4島を日本固有の領土と考える線引きはこの時が始まりだといえる。その後、樺太・千島交換条約(1875年)により、千島列島はすべて日本が、樺太(サハリン)はロシアがもつことになった。さらに、日露戦争でロシアに勝利した日本は、ポーツマス条約(1905年)で樺太の南半分(北緯50度以南)も獲得した。この間も一貫して北方4島は日本の領土であり続けた。しかし日本が第二次世界大戦で降伏する直前、日ソ中立条約を無視したソ連は突如、対日参戦した。日本がポツダム宣言を受諾した後も進撃を続け、1945年9月までに4島を占拠した。この際日本軍は抵抗せず、占拠は無血で行われた。当時4島に住んでいた日本人は約1万7000人でソ連人住民はいなかったが、ソ連の占拠により、49年までにすべての日本人が強制退去されられることとなった。
日ソ共同宣言
サンフランシスコ平和条約に調印しなかったソ連と法的な「戦争状態」に終止符を打ち、国交を回復するため、鳩山一郎首相とブルガーニン首相が1956年10月に調印した共同文書。この宣言の中でソ連は、平和条約をいずれ締結した後に「歯舞」「色丹」を返還することで合意した。しかし「国後」「択捉」の帰属については合意できず、交渉継続事項となった。そして1960年にソ連は歯舞・色丹返還条件として日本領土からの全外国軍隊の撤退を加えた。
引用・参考文献
外務省:日本の領土をめぐる情勢 2018年1月13日閲覧 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/mondai_qa.html#q2
世界史の窓:北方領土問題 2018年1月13日閲覧 http://www.y-history.net/appendix/wh1602-095_1.html
最新版 図説 よくわかる世界の戦争:毎日新聞外信部、毎日新聞社、2011年2月25日
next教科書シリーズ 国際関係論 第2版:佐渡友 哲・信夫 隆司、弘文堂、2016年3月15日