バビロン捕囚1
出典: Jinkawiki
二度の攻撃により、ついにユダヤ王国は滅亡する
背景
出エジプトに続く苦難の歴史後、前10世紀になると、ダヴィデ王に続きソロモン王が王国の最盛期を現出させた。イェルサレムは神殿をはじめとする公共建造物が建設され、行政制度・軍隊の整備など国家体制を整えたが、そのための重税で彼の死後、王国はイスラエルとユダに分裂。前8世紀末、アッシリアのサルゴン2世の攻撃でイスラエル王国は滅亡したが、ユダ王国は滅亡を免れた。前7世紀末になると、ユダ王国に対しエジプトが影響力を強めた。その一方でアッシリアの滅亡後、カルデア人によってバビロンを都に建国された新バビロニアが巨大化し、当時まだ皇太子であったネブカドネザルの指導の下、北シリアのカルケミシュでエジプト軍を破り、シリア・パレスチナの覇権を奪取したのでユダはこの時期から自動的にバビロニアの支配下に移された。そうしてユダ王国にとり新バビロニアが深刻な脅威となった。
内容
ユダの国王ヨヤキムが新バビロニアへの朝貢を廃止したため、ネブカドネザル2世はイェルサレムを攻撃。3か月に及ぶ戦闘の後、イェルサレムは陥落、王や貴族・軍人など1万人余りがバビロンに連行された。前597年のことである。その後、ネブカドネザル2世に擁立されたゼデキア王はエジプトにそそのかされてバビロニアからの離反を図ったが、これを知ったネブカドネザル2世は再びイェルサレムを攻撃、神殿も破壊した。両目をつぶされたゼデキア王は多くのユダヤの民とともにバビロンに運ばれ、前587年、ユダ4王国は滅亡した。
その後
ユダヤ人は前538年、アケメネス朝ペルシアによって解放されたが、国家の建設は許されなかった。ユダヤ人の一部にはエジプトに移り住んだものもいた。しかし、エジプトでの生活は楽なものではなく前1230年頃、モーゼに導かれて脱出した。次々と襲う民族の受難の中、ユダヤ人は「メシア(救世主)思想」や「選民思想」「戒律の厳格な導守」などを特色にするユダヤ教を形成した。指導者モーゼが公表した「モーゼの十戒」は神との関係、社会の中での人間関係を規定してあり、ユダヤ教のすべての立法の基礎となっている。