日露戦争2
出典: Jinkawiki
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概要
1904年2月から翌年9月にかけて行われた日本とロシアによる戦争。当時、日本はイギリス・アメリカの支配下にあったが、その支持の下で強硬政策をとり開戦した。この戦争の意義については、ロシアの大韓帝国への進出が日本へ及ぶことを防ぐ自衛のための予防戦争であったという見方と、満州と朝鮮の支配をめぐって戦われた帝国主義国間の戦争であったという見方の二つがある。戦争中日本は数々の戦いで勝利を収めたが、軍事的・経済的な面で徐々に厳しくなり、またロシアでは、革命運動が激しくなったことでお互いに早期戦争終結を望むようになった。こうして両国は、1905年アメリカのポーツマスでの講和条約を結び、日露戦争は終結した。
宣戦布告
日本の陸海空軍は、1903年12月に開戦準備に着手した。戦争を行う上で、日本は国力と軍事装備において劣っていたため、それを補うために援軍が到着しない前にロシア軍に大打撃を与えて外積を獲得し、戦況が有利な段階でイギリスやアメリカに対し講和幹旋を依頼して早期に戦争を終結させようという作戦をとった。こうした要請にこたえるため、奇襲攻撃によって緒戦で可能な限りロシア軍の戦闘能力を奪う作戦がたてられ、1904年2月6日に国交断絶を通告すると、宣戦布告に先立つ2月8日、陸軍先遣部隊が仁川から韓国への上陸を図るとともに、連合艦隊による旅順港外のロシア艦隊への夜襲作戦が決行された。これらを受けてロシアは9日に、日本は10日に宣戦布告した。
日本の陸軍の動き
陸軍は、最終的に四軍編制によって戦うこととなった。第一軍の先遣部隊は、1904年2月8日、中立宣言をしていた大韓帝国の仁川に上陸し、制圧後の2月23日に日韓議定書を締結した。その後、朝鮮半島を北上して次々とロシア軍を破り、遼陽を目指した。また、第二軍は5月に遼東半島に上陸、南山激戦を経て6月7月の戦いで勝利を収め、第一軍および6月に新たに編成された第四軍とともに遼陽に進撃した。他方、第三軍は、8月と10月の旅順要塞の総攻撃に失敗。そのため、軍は予備戦力の全てを投入し、翌年1月に旅順は多数の死傷者をもって陥落した。そして、1905年3月の奉天での会戦は日本軍25万人、ロシア軍32万人による日露戦争最大の戦闘となり、両軍死力を尽くした末に日本軍が辛勝した。この段階で兵員・物資・財政のすべての面で日本軍の戦力は限界に達し、参謀長の要請によって政府も講和条件の検討に入っていった。しかし、講和の条件を少しでも有利にしようと、ロシア領である樺太に7月に上陸し、守備隊だけが駐留していた全島を占領した。
日本の海軍の動き
司令長官東郷平八郎に率いられた連合艦隊は、1904年2月8日の旅順港外での奇襲以後、黄海の制海権を確保して陸軍の遼東半島への輸送海路を維持するため、旅順のロシア艦隊の機動力を抑える作戦をとった。8月、旅順のロシア艦隊はウラジオストクへの移動を試んだが、日本の連合艦隊主力は10日の黄海海戦で打撃をあたえ、第二艦隊は14日の蔚山沖海戦で陽動作戦をとっていたウラジオストク艦隊を撃破した。そして、1905年5月27日・28日の日本海海戦において連合艦隊が勝利を収め、壊滅的な被害を受けたロシアは、戦争終結の方針を決定した。
講和条約
1905年8月10日からアメリカのポーツマスで、日本全権の小村寿太郎外相と高平小五郎駐米公使、ロシア全権のヴィッテとローゼン駐米大使による講和会議が開かれた。小村寿太郎は、戦費賠償と樺太割譲などを要求したが、ヴィッテは戦争を続行すればロシアにも勝利の気があるとして日本の要求を拒否し、交渉は難航した。しかし、日本が賠償金支払い要求を撤回することを条件に、①北緯50度以南樺太を割譲する、②韓国に対する日本の指導権を承認する、③旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道とその付属利権を清国の同意をえて割譲する、④沿海州・カムチャッカの漁業権を認める、という日露講和条約(ポーツマス条約)が9月5日に調印された。
参考文献
山室信一(2005)『日露戦争の世紀』岩波書店