オランダの歴史
出典: Jinkawiki
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紀元前、今のオランダにはゲルマン民族とケルト民族が住んでいた。 5世紀初頭頃までライン川南部はローマ帝国支配化の地域であった。中世を通じオランダは多くの封建自治体からなっていたがカール五世帝の時代に現在のベルギーとルクセンブルグと共に聖ローマ帝国に組み込まれた。 その後のスペイン王フェリペ二世の専制主義一辺倒の党利に対する広範囲の抵抗が表面化してくるとオランダ北部の地域でオラニエ公ウィレムの統率下に反乱がおき、これが80年戦争の始まりである。この戦争は1648年にウェストファリア講和条約によって終結し連合州共和国として独立した国家として認められた。 17世紀は黄金時代と呼ばれており、オランダ東インド会社により共和国繁栄の時代を迎えた。このオランダ東インド会社は東南アジアの航海および貿易の管理のために設立された世界最大の商業組織であり、アフリカおよびアジア沿岸で操業していた。これとほぼ同時期にオランダ西インド会社が西アフリカおよび南北アメリカとの貿易を行った。貿易利害をめぐり、数度にわたってイギリスとの戦争が勃発した。 連合州共和国が解体される兆しとなったのがフランス革命である。1795年に連合州共和国はフランス革命軍によって侵略支配され、バタビア共和国と名前を変更され属国となった。1813年フランス帝政が崩壊すると再び独立を取り戻した。 北方オランダでは君主制主義者と共和主義者の間で権力争いが起こったが君主制主義者が勝利をおさめた。正式な首都はアムステルダムのままだったが政府はハーグに移された。そして以前の統治州の集まりであった共和制に戻るのではなく、新しく独立した国家はフランスから導入した単一国家構造を採択した。 1815年に現在のオランダとベルギーにあたる北方および南方オランダはオランダ王国として統合されウィリアム・フレデリックがウィレム一世として国王に就いた。これがオランダの世襲君主制の始まりである。 1830年に南方オランダは王国から離脱し独立国家ベルギーを形成した。ウィレム一世はこれを黙認し、さらに1839年にこの地方の王位を放棄したことから独立が正式に認められた。このベルギーの独立により、現在のオランダの国境ができた。1848年にオランダ憲法の徹底的な改正が実施され、選出された議会の責任は王にではなく閣僚にあるものと定められた。これが議会制度を持つ立憲君主国の基本となっている。第一次世界大戦においてはオランダは中立の立場を維持した。この中立の方針は第二次世界大戦まで引き継がれたが1940年5月にドイツに侵略、その後5年間占領された。オランダは第二次世界大戦までは多くの植民地を保有していたが、1945年以降その多くが早々と独立していった。