日章丸事件
出典: Jinkawiki
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1,この事件とは 50年代初めのイランでの石油紛争とメジャーの力の一時的後退がみられた。その間隙をつき、日本の民族系石油資本が国際価格以下でイラン原油の入手に成功した。そして、巨利をおさめた成功例であった。しかしこの成功は、やがて国際コンソーシアムを結成し、背後に自国政府の支援をえた英米系メジャーの強力なまき返しにあった。そのため2年とは長続きしなかった。これが日章丸事件である。
2,事件の始まり かつて、日本は石油資源を確保するために無謀にも太平洋戦争に突入している。そして、敗戦の悲局を体験した。この時代「石油の一滴は血の一滴」と呼ばれていたほどなくてはならないものであった。戦時中なため、戦闘機を動かす動力源であったためであるといえる。そこで、目をつけた場所がイランであった。ブリヂストンタイヤ社長、石橋正二郎氏から出光佐三氏へあなたのところで買う気はないかと言われている。出光氏は後の出光興産の創業者である。しかし、問題があった。イランから石油を買う場合、シンガポール沖を通らなければならないのだ。当時、イギリス海軍によって見張られており石油を載せたタンカーを拿捕または撃沈させられる可能性があったのだ。そのためやすやすと油を買いには行けなかったのである。それをイラン人でありバイヤーであるホスロブシャという人が[いま、イランのアバダンのタンクには、1千万トンの油が買い手をつかずにあふれている。それは、イランのものであってイギリスのものではない。にもかかわらず、まだだれも買い付けに乗り出してこない。あなたのところで買い付ける意思はないか。]と出光氏に返している。このやり取りが行われた日が日章丸事件が始まった日であった。
3,戦争との関係~阿波丸~ 日章丸が航海を続けていた海路には、かつてあった戦争時の魚雷や、空爆、撃沈された船、搭乗していた乗組員が静かに眠っている。[戦争末期に日米両国の取り決めによって決めた航海の安全を保証する緑十字のマークをつけた阿波丸の米潜水艦による撃沈は、今日もなお尾を引く問題]である。両国できめたはずなのに撃沈したことは紛れもない事実である。しかしこの阿波丸は石油と関係がある。この船の乗組員の5分の1は「石油部隊」でありそのほとんどが、[帝国石油や日本石油などの在籍のまま、軍に徴用されていた民間人であった。]そしてこの悲劇があったのが阿波丸である。
4,参考文献 ・昭和戦後史◇イラン石油を求めて 日章丸事件 1981年 松崎昭一 冬樹社 ・出光興産株式会社 http://wakei-education.sakura.ne.jp/2014/2017.html
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