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出典: Jinkawiki
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バイリンガリズムの定義
バイリンガリズムとは「2つの言語を使用するという現象」と定義されている。類似した言葉であるバイリンガルは「2つ以上の言語を対話の場に応じ、使用する人」という認識であるが、どのレベルまで第2言語を習得すればバイリンガルと呼ばれるのかの判断が非常に曖昧である。日本では「母語と同じように流暢に使える」レベルに達しなければバイリンガルだと認めてもらえない。つまり、中学・高校・大学で英語を学習した学生がバイリンガルであるとは言い切れないし、実際に流暢に会話ができるレベルの生徒が居るかと言われれば数少ないと考えられる。この定義はアメリカの言語学者であるレナード・ブルームフィールドのものであり、このレベルが第2言語の習得の最終段階に当たると解釈できる。同じくアメリカの言語学者であるエイナル・ハウゲンが定義するバイリンガルは「完結した意味のある会話ができる」レベルと示している。このハウゲンの定義によれば、文法として正しいものでなければならないという明確なルールはなく、あいさつ程度の簡易的な対話ができればバイリンガルであるという。このハウゲンの定義をスタート地点とし、ブルームフィールドの定義を到着地点とおく、その間の工程ことをバイリンガリズムと呼ぶのである。簡単に言うと、バイリンガリズムとは「特定の能力を持った人のこと指すのではなく、ほぼすべての人がかかわりを持っている日常的なことを指している」ということである。
完璧なバイリンガルの必要性
バイリンガリズムとは「簡易的な会話」から「流暢に操る」レベルの間の工程であるというのは上文で示したが、そもそも2言語の完璧な獲得というのは可能なのか。結論から言うと、不可能であり、不必要である。なぜかというと、「2つの言語を同じ頻度で使う場面がない」から。具体例を挙げると、日本人の国際関係の仕事に努めている人がいるとしよう。仕事上では2言語を同等に扱っているかもしれないが、家に帰って家族と会話するときに使う言語は一方の言語に限られるということ、日本人家族の場合は日本語を使う頻度が高くなる。このことから2つの言語が様々な生活の場面で同じように必要になるという状況はほぼないに等しいだろうし、完璧に第2言語を獲得している人が存在するとは考えられない。2つの言語の能力を判断する要素として「聞く・書く・読む・話す」の4つであるが、全ての項目が完璧である必要はあるのかということ。医者は英会話ができなくてもカルテを書くときはほとんどが英語で書くし、外国人がよく利用するスーパーマーケットなどでは読み書きの能力は不必要であり、話す能力・聞く能力が必要となってくる。個々の得意不得意の分野があり、それぞれに需要が存在する。無理に不得意分野について学習するのはかえって時間の無駄であり、完璧に習得しても無意味になってしまう。「完璧な習得」を目標としている教育のみをバイリンガル教育とするのは、理想主義的な主張であるとわかるだろう。
日本の言語の国際化
言語を扱っている職業は言語学者だけではない。ミュージシャンにとって歌とは聞く人に対して何かを伝えようとするのが職業といっても過言ではない。ただ、伝えたい事や言いたいことを1つの言語だけで表現するにはあまりにも言葉が足りない。作詞者の創造力や芸術性を余すことなく伝えるためには様々な言語から言葉を借りることが必要になってくる。そうすることで「この部分では日本語が使われていて、ここでは英語、ここではドイツ語」などの明確な線引きというものができなくなり、日本人が作った歌として認識される。例えば、「私はdesk(机)の上でノートとpencil(ペン)を使っている。椅子に座ってwindow(窓)を眺めながらcoffee(コーヒー)を飲んでいる」。この例文は不自然だが日本語の文章として認識できる。注目してほしいのはアルファベットで表記されている部分。一見は英単語に見えるが、語源をたどるとラテン語・古フランス語・古代ノルウェー語・トルコ語と様々な言語が関わっているとわかる。言葉の借用先がすぐにわかる場合もあるが、わからない場合の方が多い。このように日本国内にいながら多様な言語とつながっている。そこで問題になるのが外国語と母語の区別である。これは言語学者が決めることではなく、むしろ社会的に権力のある人や政治に影響力を持つ人間決めることである。その国でコミュニティーの母語である言語が外国語と呼ばれることも少なくない。アメリカにおけるインディアンの言語と英語の問題などが例に挙げられる。日本の琉球語と日本語の問題もそのうちの1つである。確かに、琉球語は英語ほど使われていないし、伝わる方が少ないが、日本の政治や文化政策から見れば、琉球語は「外国語」に分類されるべきではない。また、日本国内の在日韓国・朝鮮人の生活環境の中で韓国語・朝鮮語を使っていることを配慮すると「外国語」と呼んでいいのか、という議論がある。この外国語の分類を新たにすることが課題であり、日本の国際化にも貢献されると思われる。言語というのは一番身近に感じることができる国際性が豊かなものである。
移民のバイリンガリズム
国際化が進み、世界各国へのアクセスが非常に簡易的な現代社会、母国を離れて他国に移住する外国人も多く存在する。日本でも海外への留学制度の充実化など国際的な取り組みに積極的である。では「移民」と「バイリンガル」はどのように結びついているのだろうか。日本への移住を希望する外国人の場合、日本語を学ぶことがバイリンガルにつながるが、日本語を学ぶことによって母国語の能力が低下してしまうことはあまり好ましくないし、避けなければならない問題である。日本で働く外国人からの要望や認識を考慮してみると、外国人の母語や母国文化に対する配慮が必要であると気づく。日本への永住を希望しない人や交換留学生など中~短期間の人にとって、帰国した際の母語への再適応は無視できない問題であり、日本に限らず移民を受け入れる側の社会が考えなければならない問題である。彼らにとって母語が第一言語であり、日本語は第二言語にあたるにもかかわらず、受け入れる側は日本語に重点を置くため、第一言語である母語能力の低下につながってしまう。国際理解や価値観の多様性などの育成を図っている日本にとって、移民の国際性や言語能力を評価していない点に関しては大きな矛盾が生じる。繰り返すようだが、移民といっても一生その国で生活するわけではなく、母国と移民先の国を行き来する生活が増える。その中で必然的にバイリンガルになるだろうし、バイリンガルであり続けなければならない。移民のバイリンガルの能力が衰えてしまわないような社会の受け入れ態勢を作ることで、海外から帰国した様々な日本人たちにとっても活躍できる場を提供し、日本で生活しながら異文化について学ぶことでバイリンガルを育てることになる。このような社会を目標にすることで、日本の本当の意味での国際化につながっていくだろう。
参考文献 作者:ジョン・C. マーハ、八代 京子『日本のバイリンガリズム』1991年発行
張本智和
14歳、中学2年生。史上最年少で卓球全日本選手権優勝。 試合中、点数を取ると「チョレイ!」と叫ぶことが 世間では有名。だが、あまりにも嬉しすぎると、「チョレイ」を言い忘れてしまう。