ソ連崩壊
出典: Jinkawiki
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概略
1991年の12月25日に大国であったソビエト社会主義共和国連邦が崩壊したことを指す。ソビエト連邦共産党解散を受けた各連邦構成共和国の主権国家としての独立、当時の大統領ミハエル・ゴルバチョフの辞任に伴いソビエト連邦が解体された出来事。
背景
ソ連は一つの国でなく、いくつもの国が集まった連邦だった。共産党によって統率された15の国々によって構成されていて、ベラルーシやウクライナ、ザカフカースが1922年にロシア連邦と連合してソビエト連邦が成立後、カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、ウズベキスタンがソ連に編入した。これらの国々は各国の共産党がロシア共産党の支部となっていたため共産党政権が崩壊しない限り離脱は不可能だった。第二次世界大戦後、アメリカの資本主義、自由主義陣営とソ連の社会主義、共産主義陣営の対立でアメリカとソ連は冷戦へと突入していった。しかし冷戦にかかる軍事予算は膨大でアメリカもソ連も大赤字へ陥ることになる。アメリカでは、レーガン大統領の時代で2兆ドルの累積赤字で対するソ連はそれを上回った。ソ連もアメリカも軍事予算の拡大で経済危機となっていき、1985年からソ連とアメリカはレーガンとゴルバチョフによる首脳会談を再開し共に兵器削減などについて話し合いを始める。1989年にはゴルバチョフとブッシュが冷戦の終結を宣言した。しかし、ソ連では経済破綻を何とかしようとゴルバチョフが全般的な改革であるペレストロイカを打ち出したが、共産党一党独裁や社会主義計画経済は限界を迎えていたため、これが失敗に終わる。各地で民族紛争も多発するようになり1990年には第二次世界大戦時に併合されていたバルト3国がソ連から独立した。1991年8月にはゴルバチョフに反対する共和党内での保守派といわれる人たちがゴルバチョフの改革に反対してソ連8月クーデターを起こす。ゴルバチョフは一時、クリミアにて軟禁されますが改革派のエリツィンらの活躍によりクーデターは収まった。
崩壊
8月クーデター失敗後、ウクライナがソビエト連邦からの離脱を国民投票で決定し、12月8日に急遽行われたロシア共和国、白ロシア、ウクライナによる秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言される。すると3ヶ国のソビエト連邦からの離脱とEUと同レベルの共同体の創設が確認され、その後の12月21日、ロシアを初めとした12共和国が、ソビエト連邦に代わる新しい枠組みとして独立国家共同体(CIS)の設立を宣言するアルマ・アタ宣言(英語版)に調印したことで、ソビエト連邦はその存在意義を完全に失った。12月25日19時の会見で、ミハイル・ゴルバチョフはソビエト連邦大統領の辞任を表明し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていたソビエト連邦の「鎌と鎚の赤旗」の国旗も降ろされ、これに代わってロシア連邦の「白・青・赤の三色旗」の国旗が揚げられた。翌日12月26日にはソ連最高会議共和国会議でソ連の消滅が確認された。 その後も15の共和国はCIS(独立国家共同体)として関係を維持しようとしますが現在でも実はあまりうまくいっておらず、少数民族の独立運動など数々の問題をロシアは抱えているのが現状である。
参考文献
Wikipedia:https://ja.wikipedia.org/wiki/ソ連8月クーデター
わかりやすいロシアの歴史:http://www12.plala.or.jp/rekisi/soren-houkai.html
weblio辞書:https://www.weblio.jp/wkpja/content/ソ連崩壊_ソ連崩壊の概要
HN:kongta