グルブッディーン・ヘクマティヤール
出典: Jinkawiki
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グルブッディーン・ヘクマティヤール
グルブッディーン・ヘクマティヤール(1947~)は、アフガニスタンの第19・20代の首相。政治家。イスラーム党、軍閥・ヘクマティヤール派。アフガニスタン最大の民族パシュトゥン人(パフトゥーン、パターン、イスラームとも呼ばれる)の部族連合のひとつ、ギルザイ北部連合のハロチ部族に属する。アフガニスタン北東のクンドゥズ州出身。
主な活動・功績
カーブル大学工学部在学中、政治運動に携わるように。マルクス・レーニン主義(社会主義のひとつ)の影響を受け、アフガニスタン人民民主党へ入党するも、シャリーア(イスラーム法)を規範としたイスラム原理主義を盲信し、当時のムハンマド・ダーウード大統領(ソ連寄り)によるイスラーム主義者の弾圧により、反ダーウード、反ソ連の思考を強め、パキスタンへ亡命した。 パキスタンでイスラーム党を結成。対ソ連戦において数々の戦績を挙げる。また、パキスタン内に数百にも及ぶ学校の建設やアフガニスタン難民のパキスタンでの権利保護に尽力するなどで名を上げた。 ソビエトのアフガン侵攻の際、ムジャヒディンの指導者であったヘクマティヤールへCIAはISI(パキスタン統合情報局)を経由し、数百万ドルに及ぶ資金を提供した。このヘクマティヤールへの資金の割り当てはISIの判断である。 反ソ連戦でムジャヒディンの勝利が確実になってくると、アフガニスタンの新指導者としてヘクマティヤールを擁立する風潮がISI内のイスラム原理主義派に見られるようになった。また、ヘクマティヤールはソ連侵攻中もソ連撤退後の勢力争いを優位に進めるため、他派のライバル勢力に対して盛んに攻撃を指揮した。 アフガニスタン・イスラム国の崩壊後、マスードとの和平合意に調印、首相に就任する。しかしムジャッディディー大統領の乗った飛行機をミサイル攻撃したことで、合意が破れる。その結果、ラッバーニー、マスードの所属するイスラム協会とドスタム将軍派イスラム民族運動は反ヘクマティヤールの軍事同盟(ラッバーニー派)を結び、これに対してヘクマティヤールはイスラム民族運動、シーア派イスラム統一党と同盟を結ぶ。両者はカーブルを包囲し、多数の死者とカーブル市街に壊滅的な損害をもたらしたアフガニスタン内戦を引き起こした。 ターリバーンがカーブルへ入城する数か月前に和平を結んだことによりヘクマティヤールは再び首相に就いたが、カーブルの荒廃をもたらした元凶である彼らは、ターリバーンの占領を易々と許すことになった。 アメリカ同時多発テロ以後、ヘクマティヤールはアメリカのアフガニスタン侵攻に反対、アメリカと同盟を組むパキスタンに警告をした。ビンラディンの受け渡しを拒否したターリバーン政権が崩壊した後も国際連合を介した和平合意に対し、「アメリカはアフガニスタンに傀儡政権をもたらす」と述べた。 2002年にイランのイスラーム党のすべてのオフィスが閉鎖されると、ヘクマティヤールもイランから追放され、その後の行方は明らかになっていない。
参考文献
グルブッディーン・ヘクマティヤール[1] アフガニスタン戦争[2] 三野正洋(1998) 『わかりやすいアフガニスタン戦争―「赤い帝国」最強ソ連軍、最初の敗退 (新しい眼で見た現代の戦争)』光人社
Makyo