第一次世界大戦6

出典: Jinkawiki

2018年1月27日 (土) 12:41 の版; 最新版を表示
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目次

サラエボ事件

オーストリア=ハンガリー帝国の圧力に日々さらされる隣の小国セルビアでは、ハプスブルグ家率いる帝国への反発を強めていた。そのさなか1914年6月28日に帝国の皇太子フェルディナントが、当時帝国領であったサラエボ市の市庁舎を訪問した。訪問の理由はあまり明確になっていないが、市庁舎へ向かう途中で皇太子夫妻は1度目の襲撃を受ける。攻撃は外れ、後ろの車が爆弾によって吹き飛ばされるも、皇太子夫妻は無事であった。しかし市庁舎訪問終了後2度目の襲撃を受け、夫妻はセルビア人テロリストによって射殺されてしまう。これが後にサラエボ事件と呼ばれ、これを機に帝国はセルビアへ宣戦を布告した。


戦争の展開

オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の間で戦争が始まると、ロシア帝国がセルビアを支持して戦争に参加。ロシアはオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国を排除して黒海への進出を目論んでいた。

ロシアが戦争に参加するとこれに反応してドイツが戦争に参加。ドイツはこの戦争に参加する直接の理由が無かったが、様々な領土的野心から戦争に加わったといわれている。

イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告されたため、止むを得ず参加した。オスマン帝国もロシア帝国に挑まれる格好になったため参加。

イタリアはオーストリア=ハンガリー帝国とトリエステ地方及びチロル地方の領土問題でもめていたため、この戦争を好機と捉え参戦。

日本、ブルガリアなどその他の国々は参戦する直接の理由が無かった。しかし諸々の同盟関係の手前、手伝わないわけにも行かず、やや遅れて参戦した。

アメリカは「栄光ある孤立」モンロー主義を通じて戦争には参加しない方針であったが、ドイツが大西洋で無制限潜水艦作戦を実行したため、最終的には参戦した。

この第一次世界大戦の開戦に至る経緯については様々な分析がなされているが、直接の開戦理由ははっきりしていないとも言われている。サラエボ事件はほんの端緒に過ぎず、それまでの欧州諸国の間にあった様々な要因(歴史的要因やナショナリズムの勃興もあった)がすべて絡み合い、当事者たちの判断がすべて悪い方向に向かっていったとしか思えないような展開の果てに起きた戦争でもある。いささか極端な意見としてすべては偶然の産物でしかなかったという意見もある。

明らかになっていることを書けば、国家指導者達は楽観的で開戦間際まで状況が破滅的であることを理解できなかった(気が付いた時には止める術がなかった)。多国間に絡み合うように結ばされた同盟関係は自動的な開戦を生む破目にもなった。また主な通信手段が電報だったため本国の指導者たちと外交官たちの間には暴走と様々な過誤も生んだ。軍隊指導者は自ら、あるいは先達が作り上げた事前の戦争計画に拘泥して"自国の置かれた外交的立場"などお構いなしに"自動的に"総動員体制へと邁進していったのである。


戦争の長期化

6月末のサラエボ事件に端を発したこの戦争は、クリスマスまでには終わるという楽観論が当初大勢を占めていた。が、その予定は簡単に覆される破目になる。

オーストリアとセルビアの間で軍が衝突をしたことを受けて、ロシアが参戦を決定。ロシアの参戦を受けてドイツは事前立案されていた戦争計画"シュリーフェン・プラン"にもとづいてロシアが総動員から戦線へ展開する時間差をついて、両面作戦を回避するためもう一方の国境を接するフランスに対して作戦行動に移る。 この"シュリーフェン・プラン"はベルギー領内を迂回してフランス・パリを包囲するという作戦行動のため、"自動的"に(当時中立国宣言をしていた)ベルギーに対して宣戦布告することになる。イギリスはこれを受けて最後通牒をドイツに対して送ることになり、ここに欧州全域を巻き込むだけではなく世界大戦への道が作られることなった(驚くべきかあきれるべきか、ドイツを含め参戦国の大半が動員にあたっては鉄道のダイヤを元にして考えていたため、動員を限定することも止める術も持ち得なかった。止めた途端に軍の動員計画だけではなく自国の経済活動にすら混乱が生じることは自明だったため、軍指導者たちにとって動き出した計画は誰にも止めることが出来なかったのである)。

結果から言えばドイツのシュリーフェン・プランは頓挫した。理由はいろいろあるが小モルトケが改良(改悪)したせいだという理由がもっぱらだろう。一方には当時の鉄道を中心にした補給網にとらわれていた動員と兵力移動スピードでは当初作戦案どおり決行されていたとしてもパリの包囲はならなかっただろうとも言われる。

そして戦場ではこれまでの欧州の戦争とは全く違う光景が現れていた。いざ戦闘が始まってみると、突撃した騎兵・歩兵が敵の機関銃で皆殺しにされるという悲惨な状況が相次ぎ、旧時代の戦い方がまったく通用しないということを思い知らされる羽目となった(フランス軍では伝統的な鮮やかな軍服を迷彩服に替えるとは何事かという牧歌的意見もあったが、戦場においては単なる派手な目標にしか過ぎず、大損害を出すこととなった)。

対応策として東部・西部戦線では互いに塹壕を掘ることなった。特に顕著だったのは西部戦線で、果てはドーバー海峡からスイスまで届かんばかりの長い塹壕を掘ることになったが、守備を固めることには成功したものの攻め手に欠け、できることといえば遠くから砲弾を撃ち込む程度のものだった。膠着した戦況を打破しようとした結果、攻め込まずに敵を倒せる毒ガス、機関銃に耐えつつ前進ができる戦車、塹壕を飛び越えて進める飛行機が史上初めて実戦に投入された。ただしこれらの兵器は当時まだ考案されたばかりのものがほとんどで、決定打と言えるほどの力は持たなかった。

事態打開のため連合軍はオスマン帝国の首都イスタンブールを占領しロシアとの連絡路を構築すべく、1915年2月から近代戦史上初の大規模敵前上陸作戦・ガリポリ上陸作戦を発動するが、ドイツからの軍事顧問団によってガリポリ半島とダーダネルス海峡は要塞化されており、機雷網と要塞砲の前に多数の戦艦や艦艇を失い、辛うじて上陸に成功した部隊も多大な犠牲を払いながら奮戦したムスタファ・ケマルらオスマン帝国軍の前に押し返され、翌1916年1月に撤退を余儀なくされた。

その一方、主戦場から遠く離れた日本は英仏をはじめとする連合国の度重なる参戦要請・派兵要請をのらりくらりと躱しつつ、中国大陸や南太平洋のドイツ領地を楽々と切り取っていた。また当時急成長中だった日本の総合商社・鈴木商店は欧州各国の駐在員からの情報を分析し、開戦初期の段階で戦争の長期化を予測、世界各地で石油・鉄鉱石・穀物など戦略物資の大規模な投機的買占めを行い、莫大な利益を築き上げた。欧州の戦場には鈴木印の麻袋で作られた土嚢が至る所に転がり、「SUZUKI」の名は当時の欧米の人々に深く刻み込まれることになる。

大戦後期、切り取ったドイツ領の扱いについて英仏と話がついてからようやく、地中海・大西洋への護衛艦隊派遣、フランスへの駆逐艦輸出など限定的な形で欧州に参戦した。


戦争の終盤(1917年~)

東部戦線では3年もの間一進一退が続いていたが、ロシアでは戦争の長期化で国民の間に不満が高まり、ドイツがレーニンら革命家たちの帰国を手伝ったこともあって1917年ロシア革命が起きてしまう。これで戦争どころではなくなったロシアは戦争から手を引き、ドイツ帝国とブレスト=リトフスク条約を締結、ウクライナを含むロシアの広範囲の領土をドイツ帝国に割譲した。しかしこの後のドイツ帝国の敗戦に伴いロシアは条約の廃棄を宣言し、1919年のヴェルサイユ条約で失効した。

ロシア革命によって東部戦線が自然消滅。戦力は西部へ向けられることとなった。西部戦線では戦域に隈なく張り巡らされた塹壕によって、攻めることが困難な状況になっており、ドイツでは迂闊に攻めるよりも補給を断って相手を干上がらせる戦術へと切り替えが進んでいった。もっとも有名なのが無制限潜水艦作戦である。「大西洋を航行する船はとりあえず攻撃」という大雑把かつ広範な作戦によって、大西洋を航行する無関係な船舶も沈められ、世界経済は混乱した。特に戦争特需に沸くアメリカ合衆国の被害が大きく、それまで参加予定がなかったアメリカの参戦を招いてしまう。

アメリカの参戦によって、物量面で中央同盟国側は圧倒的に劣ることになり、ドイツなどは優位に進めていた戦域が多数あったにも関わらず、最終的には物量が不足すると共に将兵らに厭戦気分が蔓延した。

誰もが長く続く陰惨な戦いに心を痛めていたのだ。カイザー・ヴィルヘルム二世がドイツの実質的戦争指導者でもあったルーデンドルフを更迭したことも厭戦気分を増す結果となる。最後の決定的な出来事はロシアでもそうだったように海軍から発生した。
状況の打開を目指してドイツは艦隊の出撃を命じようとしたものの、水兵たちがこれを自殺行為と判断。命令を拒否し反乱を行う。この反乱事件は瞬く間に全海軍でも行われ、次に陸軍までも波及し、ヴィルヘルム二世の退位を求める革命となった。この騒動を受けて、アメリカ側から退位を求められてもいたヴィルヘルム二世は亡命し、ここに革命が成立した。それは長く続く戦いの終わりでもあった。その前には騒動の発端でもあったオーストリア=ハンガリー帝国も崩壊していた。

(終戦からベルサイユ体制)

1918年11月11日に第一次世界大戦終戦。フランスにあるコンピエーニュの森で休戦協定が結ばれ、翌年講和会議が行われることとなる。

年が明けた1919年1月パリで講和会議が開かれ、戦後処理が行われる。講和条約の締結だけはパリではなくベルサイユで行われた。これはドイツ帝国が普仏戦争で勝った時に条約を結んだ場所であることへの意趣返しである。この意趣返しはさらに第二次大戦にも続き、ナチス・ドイツのフランス降伏文書は、コンピエーニュの森でわざわざ休戦協定を行った食堂車輌まで用意して行われることになる。 この講和会議の内容は大変感情的なもので、ほとんどが英仏によるドイツへの賠償を請求するものであった。 とはいえ英仏にとっても事情があった。英仏はアメリカの多大な貸付によって戦争を行っていたこともあり、アメリカの支払い要求もまた強かった。まさしく負担はより低いところへ流れていくようにドイツの賠償となって形になっていったともいえる。

ベルサイユで調印された条約を元に戦後の新体制がヨーロッパに建設された。これをベルサイユ体制と呼ぶ


参考文献・出展 大百科ニュース社(http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6)                                                              (2018・1・27 閲覧)         


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