帝国主義3

出典: Jinkawiki

2018年1月27日 (土) 14:11 の版; 最新版を表示
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帝国主義

帝国主義ということばはきわめて多義的に用いられる。広義かつ一般的には、その語源がローマ皇帝の支配する皇帝国家(インペリウムimperium)に由来することからも明らかなように、政治的、経済的、軍事的、さらには文化的な権力・権威をもってする他民族の領土や国家への侵略と支配、を意味する。近代では19世紀初めナポレオンによる皇帝国家実現の企てに関連して用いられ、ついで1870年代後半イギリスの植民地帝国の拡大強化をめぐる論争のなかで、領土膨張主義ないし植民地主義をさす政治上の用語として普及した。しかし、その後、20世紀への転換期を挟んで帝国主義は、近代資本主義の自由競争段階から独占と金融資本が支配的となる独占段階への移行転化を背景に、列強資本主義諸国による世界市場支配と植民地獲得をめぐる経済上の対立と紛争に関連して用いられるのが一般的な傾向となった。[吉家清次]


帝国主義の歴史的形成

最初に近代資本主義体制を確立して以降、世界の工場、世界の商人、世界の銀行家として、その圧倒的な優位性を享受していたイギリスの地位も、19世紀後半になると、まずドイツ、フランス、ついでアメリカの急速な資本主義的発展によって脅かされつつあった。世界は諸資本主義国間の厳しい競争の時代に入ったのである。この厳しい競争の時代を象徴的に示したのが、1873年から実に23年間の長期にわたってヨーロッパを襲った大不況である。この長期不況への対応策として諸国が採用したのが、外に向かっては自国の支配市場領域としての植民地の獲得であり、内部的には独占的企業結合の推進であった。とくに、なお最強国であったイギリスは、世界市場での優位性を背景に次々と植民地・従属国を獲得し、第一次世界大戦前には本国の100倍もの領土の55の植民地を獲得した。もちろん植民地獲得は平和的にのみ行われたわけではなく、1869年のイギリスのスエズ運河の支配をめぐるフランスとの対立やエジプトへの武力侵入、1884年のイギリスによる「帝国連邦同盟」の結成と、続く南アフリカへの侵略、さらには1898年のアメリカ・スペイン戦争、1899年のイギリスによるブーア戦争など、つねに列強間の世界の分割と再分割をめぐる政治的・軍事的対立と闘争を通して進められたのである。そして第一次世界大戦が、イギリスやフランスなど「持てる国々」とドイツ(やがて日本やロシアも加わる)などの「持たざる国々」との間の世界の植民地・従属国の再分割をめぐる帝国主義戦争として勃発(ぼっぱつ)することになる。  ところで、諸列強の世界支配をめぐる対立激化の根底には、大不況期を背景とする自由競争資本主義の、独占と金融資本が支配する独占資本主義への発展転化がある。不況の長期化が、イギリスの一国資本主義の時代から諸資本主義国による競争的発展に伴う世界市場の生産力過剰化の時代への移行の結果として起こったとするならば、カルテルやトラストといった独占的企業結合が販路を求めての世界市場の分割のための企てとして広がっていく一方で、他方では過剰化した生産と資本の輸出先をめぐる諸列強の世界の再分割のための対立と抗争も激しくなっていく。とりわけこの期の国際経済関係で特徴的となった過剰資本そのものの輸出は、輸出資本の権益の擁護という名目での軍事的侵攻を伴う結果、諸列強による植民地的支配は不可避的な傾向となって広まっていった。こうして時代は、のちに歴史家たちのいう「帝国主義の古典的時代」となったのである。[吉家清次]

参考文献 https://kotobank.jp/word/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9-100031(コトバンク 帝国主義とは)(2018.1.27閲覧)


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