ベトナム戦争53
出典: Jinkawiki
ベトナムの共産化を阻止する口実でアメリカは1965年から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援、北爆を行い地上軍を投入、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線との戦闘を開始した。戦争は長期化したが、68年、解放戦線によるテト攻勢からアメリカ軍の後退が始まり、73年には撤退した。75年には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北によるベトナム統一が行われ、完全に終結した。
ベトナムが南北に分断された後、南ベトナムを支援して介入したアメリカ合衆国は、北ベトナムの共産党政権が南に及ぶことを強く警戒した。南ベトナムでは南ベトナム解放戦線が反米と傀儡政権打倒の戦いに立ち上がっており、政府の動揺が続いていた。アメリカはベトナム全土の共産化は東南アジアの共産化につながるという「ドミノ理論」を根拠として北ベトナム攻撃を決意、1964年のトンキン湾事件を口実に1965年に北爆を開始し、全面的な戦争に突入した。戦後の東西冷戦中で最も激しい戦闘が展開されたが、ベトナム民衆の抵抗、国際的なベトナム反戦運動の高まりによって最終的には73年にアメリカがベトナムから撤退し、75年にサイゴンが陥落してベトナムは北ベトナムによって統一され、76年にベトナム社会主義共和国が成立した。 → アメリカの外交政策
ベトナム戦争とは 統一の主導権をめぐって南北ベトナムの勢力が対立する中でインドシナの共産化を恐れたアメリカが介入し南を支援したのに対し、北ベトナム軍と南ベトナム解放勢力が協力し、アメリカ軍・南ベトナム政府軍と戦った戦争と定義できる。さらに途中からは隣国のカンボジアとラオスに拡大したので、第1次インドシナ戦争(1946~54年)に続く、第2次インドシナ戦争とも言われる。戦争範囲がベトナムにとどまらなかったことに注意。
ベトナム戦争の開始と終結 ベトナム戦争は「宣戦布告なき戦争」であったので、いつはじまったかについては諸説ある。一般には1964年8月のトンキン湾事件か、65年2月の北爆の開始からとされることが多い。終わったのは、アメリカが敗北して撤退したのが73年1月、サイゴンが陥落してベトナム統一ができたのが75年4月、のいずれかをとる。したがってアメリカが本格的に関わっていた時期だけでも8年以上となる。(これはアメリカが関わった戦争でもっとも長期にわたるものである)
ベトナム戦争の前史 第1次インドシナ戦争の結果、1954年のジュネーヴ休戦協定が成立した後、フランスに代わってアメリカのアイゼンハウアー大統領がアジアの共産化阻止の世界戦略をかかげ、55年にはSEATOを結成して介入を強め、南のベトナム共和国に親米政権(ゴ=ディン=ディエム政権)を樹立した。それに対してホー=チ=ミンの指導する北ベトナムは1959年に南ベトナムの武力解放の方針を決定、1960年12、南ベトナム解放民族戦線を結成した。1961年1月に就任したケネディ大統領が、積極的な軍事支援を開始、62年2月にサイゴンに軍事援助司令部を設置した。1963年、南のゴ政権がクーデターで倒れ、政情不安続く。同年、ケネディを継いだジョンソン大統領は北ベトナム直接攻撃に踏み切る方策を探る。
ベトナム戦争の開始 1964年8月、ジョンソン大統領は「トンキン湾事件」を口実に北ベトナムを爆撃、さらに1965年2月から恒常的な「北爆」を開始、さらに地上軍20万人の軍も投入された。1965年の北爆開始が一般的にベトナム戦争の開始とされている。派遣兵力は69年6月には54万人に膨れあがり、掃討作戦が展開された。しかし南べトナム解放民族戦線(ベトコン)のゲリラ戦術に悩まされ、68年1月の解放勢力側のテト(旧正月)攻勢から形勢は逆転した。68年5月からパリ和平会談が始まった。このころ、アメリカ国内や世界各地でのベトナム反戦運動が盛り上がり、1969年にはソンミ村虐殺事件(68年3月、ベトコン掃討作戦中のアメリカ軍がソンミ村で女性や子どもを含む約500人を殺害した事件)が明るみに出て、戦争の正当性に対する疑問がアメリカ内外で起こってきた。
ベトナム戦争の拡大 1969年に就任したアメリカのニクソン大統領はベトナム反戦運動の高まりの中でベトナムからの撤兵を決定したが、1970年以降は一転してカンボジア、ラオスに戦線を拡大した。70年にホー=チ=ミン・ルートの遮断と称してアメリカはカンボジアに侵攻し、さらに71年にはラオス愛国戦線(パテト=ラオ)の勢力拡大を阻止するためアメリカはラオスに空爆を加えた。こうして戦火はカンボジア・ラオスを含むインドシナ半島全域に拡大し、「第2次インドシナ戦争」の様相を呈した。このアメリカの戦争拡大は内外の反発を受けたが、ベトナム側もそれを支援するソ連と中国の関係が悪化(中ソ対立)し、複雑な国際関係の中で交渉は進捗しなかった。また戦争の長期化はアメリカ財政を圧迫し、ドル危機の一因ともなったため、1971年にニクソン大統領は金とドルの兌換を停止に踏み切った。このドル=ショックは戦後の西側世界のアメリカ一極時代を終わらせることとなった。
ベトナム戦争の終結 そんな中、1972年2月、ベトナム戦争の収束の機会をねらっていたニクソン大統領が中国を電撃的に訪問、続いてソ連も訪問して大国間の話し合いを開始した。しかしこの間もニクソンは和平交渉を有利に進めようと北爆を以前に増して激しく行った。パリ和平会議の舞台裏ではアメリカのキッシンジャーとベトナムのレ=ドク=トによる秘密交渉が行われ、ようやく1973年1月、ベトナム和平協定が成立して、3月にアメリカ軍のべトナム撤退が開始された。しかし、南ベトナムではサイゴン政権と解放戦線の戦闘は継続され、1975年4月、ホー=チ=ミン作戦によって首都サイゴンが陥落して南ベトナム政府は崩壊し、ようやくベトナム戦争は終結、ベトナムの独立と南北統一が実現した。
ベトナム戦争のその後 ベトナム戦争は第二次世界大戦後のもっとも規模の大きい、またアメリカ合衆国にとって、歴史上はじめての敗北であっただけでなく、アメリカ資本主義の繁栄に影がさしはじめ、国内の反戦運動の高揚、外交上の孤立などは、大きな打撃となった戦争であった。また国内ではベトナム帰還兵の社会復帰の困難さが深刻で、「ベトナム症候群」などといわれた。
東南アジアでの民族運動の高まりに伴う対立は、中国とソ連の対立を背景にして複雑化し、カンボジアでは親中国派のポル=ポト政権が成立して親ソ派のベトナムと対立し、1978~79年にベトナムとカンボジアの国境紛争が発生してベトナム軍がカンボジアに侵攻(第3次インドシナ戦争)した。1979年1月にはベトナム軍がカンボジアを制圧、それに対して2月に中国軍がベトナムを懲罰すると称して侵攻して中越戦争が興った。その後もカンボジア内戦が続いたが、ソ連にゴルバチョフ政権が成立して路線転換した影響で、1986年にベトナムは改革路線(ドイ=モイ)に転換、中ソ関係の改善も進み、1991年のカンボジア和平協定成立によって内戦は終結した。1995年にベトナムはASEANに加盟、また同年ベトナムとアメリカの国交が回復し、ベトナム戦争は過去の出来事となった。2006年にはAPEC(アジア太平洋経済協力会議)がハノイで開催され、ブッシュ大統領や安倍首相も参加した。隔世の感がある。
引用・参考文献 http://www.y-history.net/appendix/wh1603-064.html(ベトナム戦争 教材工房)(2018.1.27閲覧)