朝日訴訟3
出典: Jinkawiki
朝日訴訟とは
朝日訴訟は1957年に始まり、1967年に原告朝日茂の死亡によって終了した、という最高裁判所の判決で終了した裁判である。生活保護基準の在り方について適法性、合法性が争われ、この裁判をきっかけに朝日氏を支援する大衆運動も起こった。
事件の概要と争点
原告の朝日茂は重度の肺結核患者であり、国立岡山療養所に入院しており、月額600円の生活保護を受けていた。しかし、1956年8月から実兄より毎月1500円の仕送りを受けることとなったため、津軽市の福祉事務所は仕送り分の600円は日用品費として使用を認める代わりに、これまで支給していた月額600円の生活扶助を打ち切り、仕送りの残額900円を医療扶助の一部自己負担金として国庫に納入するよう求める通知を出した。この生活保護の変更に対し朝日氏は、月額600円の日用品費では入院患者が給食を充分に摂取して体力をつけるための捕食費をまかなうことができないため、捕食費として月額400円の留保を願い、仕送りのうち1000円を手元に残してほしいと県知事に不服申し立てをしたが却下された。次いで厚生大臣に不服申し立てを行うも、これも却下された。これを受け、朝日氏は東京地裁に行政不服審査法による訴訟を提起した。 中心的な争点は憲法第25条に記載されている「健康的で文化的な最低限度の生活」とは何かということだった。生活保護第1条及び第3条によって、国が保障すべき最低生活は「健康で文化的な生活水準を維持することができるものでなければならない」とされ、この生活水準は、年齢や性別、世帯構成、所在地域その他保護の種類に応じて、最低限度の生活需要を満たすものとして、厚生大臣が定めた保護基準によって測定される、とされた。
判決と影響
1960年10月の第一審では原告側が勝訴したものの同年11月厚生大臣は東京地裁に控訴した。1963年11月の第二審判決では原告が敗訴し、原告は最高裁に上告したが、上告審に入って間もなくの1964年2月、朝日茂が51歳で死亡した。その後、朝日氏の養子である朝日健二、君子夫妻が訴訟を継続することとなったが、1967年5月に最高裁判決にて敗訴となった。 最終的には敗訴となったものの