イラン・イラク戦争3
出典: Jinkawiki
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=ペルシア湾戦争 隣接するイランとイラクは、イラク主要な港であるバスラとイランのアバダーン港を通ってペルシア湾に注ぐ、全長190キロの感潮河川、シャット・アル・アラブ川の支配をめぐり、長年争っていた。1979年のイラン革命後、サダム・フセイン大統領(1937-2006)の率いるイラクは、イランのテロリストグループ、アルダワの標的となり、イランの激しいプロパガンダを浴びた。いずれもイランの指導者アヤトラ・ルホラ・ホメイニ(1901-89)の指示によるものだった。イラン側はさらに、イラク副首相の殺害をくわだて、イラクの首都バグダードで騒動を起こしたほか、ローマのイラク大使館を襲撃し、イラクのシーア派の少数グループに反乱をそそのかし、またイラクの町を爆撃して市民に犠牲者を出した。これを受けて、1980年9月21-22日にイラクの軍用機と陸軍部隊がイランに侵攻し、一気にホメイニ政権を倒そうとした。イランの砲艦は爆撃されて、シャット・アル・アラブ川に沈んだ。しかし、アバダーンをはじめいくつかの空港や石油精製施設が、侵攻してきたイラク軍に破壊された。イラン軍はその報復をした。ホメイニはこの戦争を機に、国家の大義をかかげて国民を結集しようと考えたのである。そして、イランは国家総動員を呼びかけ、狂信的な軍事行動をとなえ、重装備のイラク軍と対峙、ペルシア湾のホルムズ海峡を通る石油の積み出しを封鎖すると威嚇した。国際連合と、多くの国が参加するイスラム会議はこの戦争をとめることができず、まとなく近東の歴史において最も大きな犠牲が出る、最も不毛な戦いに発展した。イラク兵は塹壕を掘り、胸壁を作り土を積み上げて陣地を築き、イラン軍が大人数でしかける攻撃をおおむね駆遂し、バスラの沼沢地から北へ、イラクの国境の町マンダリーとハーナキーンまで伸びる全長480キロの前線を維持した。しかし、いずれの側も敵の領土を占領したり、決定的な攻勢に出られなかった。約50万人の兵士をかかえるイラク軍は、化学兵器を使用したとして非難された。イラク軍も、約200万人を擁するイラン軍も、それぞれ相手方の経済的な生命線を寸断しようとした。そして、湾内を往来するタンカーを空襲したため、この消耗戦は危険なほどにエスカレートした。アメリカは、近東にいるアメリカ人に対するテロの責任が主としてイランにあると非難し、政治的にイラク側に傾く一方で、ペルシア湾の国際的な航行の自由を保障して西欧と日本の主な石油資源を守った。1986年2月、イラン軍が2つの前線で領土を獲得したが、その後イラクが奪回した。1987年5月17日、ペルシア湾をパトロール中のアメリカ海軍のフリゲート艦に、イラクの戦闘機が誤ってミサイルを射ちこみ、37人のアメリカ海軍軍人が死亡して、イラクは謝罪した。1988年、7月3日にも事故が発生した。アメリカ軍艦が、ペルシア湾でイランの民間航空機をF14戦闘機と誤認して撃墜し、乗っていた290人全員が死亡したのである。国連は紛争の終結を模索していたが、1988年にイランは何度か軍事的敗北を重ね、ホメイニはイラクとの停戦交渉を求める国連決議に同意した。
シーア派…スンニー派と並ぶイスラム教の二大宗教派の一つ。シーアは分派の意で、スンニー派(正統派)以外の派を総称する場合もある。
参考文献 『世界戦争事典』2014 ジョージ・C・コーン 河出書房新社
『世界史事典』1995 平凡社教育産業センター 平凡社