ユーゴ紛争

出典: Jinkawiki

2018年1月27日 (土) 20:58 の版; 最新版を表示
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目次

ユーゴ紛争の背景

ユーゴスラヴィアとは

 「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言葉、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」という表現は、旧ユーゴ連邦を語る際に必ずと言って良い程に引き合いに出されたものである。

 「七つの国境」とは、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア、イタリアとの国境である。

 「六つの共和国」とは、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアである。このうちセルビアには、ヴォイヴォディナとコソボという二つの自治州が存在する。

 「五つの民族」とは、当初は規模の順に、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人であったが、1963年に第3位の規模の民族としてムスリム人(ボスニア人)が加えられて、民族の数は6となった。いずれも南スラヴ人に属するが、他にアルバニア人やマジャール人(ハンガリー人)などの少数民族もいた。

 「四つの言語」とは、セルビア語、クロアチア語、スロヴェニア語、マケドニア語である。セルビア語とクロアチア語は非常に似ており、かつてはセルビア・クロアチア語として単一の言語とされることもあった。現在は、以前のセルビア・クロアチア語からボスニア語とモンテネグロ語も生まれている。

 「三つの宗教」とは、ローマ・カトリック、東方正教、イスラム教である。非常に大まかであるが、ローマ・カトリック教徒にはクロアチア人、スロヴェニア人、東方正教にはセルビア人、マケドニア人、モンテネグロ人、イスラム教徒にはムスリム人が多い。

 「二つの文字」とは、ラテン文字とキリル文字である。言語との対応関係は、クロアチア語とスロヴェニア語がラテン文字で、セルビア語とマケドニア語がキリル文字で表されることが多いが、セルビア語はラテン表記されることも多い。

 「一つの国家」とは、旧ユーゴ連邦ことユーゴスラヴィア社会主義共和国である。現在では、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6ヶ国に分裂している。

ユーゴ王国の建国

 ユーゴススラヴィア王国建国の淵源は南スラヴ統一主義に求めることが出来る。南スラヴ統一主義とは、南スラヴに属するセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人らが統一国家を建国するという思想や運動である。南スラヴ統一主義は、セルビア人においてもクロアチア人においても主張されたが、その内容は異なっていた。セルビア人による南スラヴ統一主義は、1878年に独立したセルビア王国を中心とした南スラヴ統一国家の建国を目的としていたのに対して、クロアチア人の南スラヴ統一主義の目的は各民族の平等な統一国家であった。だが、クロアチア人は自前の国家、民族の政治的中心を持たず、その主張が実現する可能性は低かった。

 ユーゴ王国の基礎となったのは、第一次世界大戦中の1917年7月に出されたコルフ宣言である。アドリア南海部のコルフ島で、セルビア王国亡命政府首相パシッチとクロアチア人代表のトルムビッチが会談した結果、第一次世界大戦後の南スラヴ人の統一国家建国が宣言された。この会談では両者の意見が対立し、コルフ宣言では具体的な国家形態に関する合意が公にされることは無かった。1918年12月に建国された統一国家の名称は「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」となった。この正式名称は長過ぎるため、当初から通称として、「南スラヴ人の土地」を現地の言葉で意味する「ユーゴスラヴィア」と呼ばれたものの、この国名こそが既に新国家の求心力の欠如を明確に示していたのである。国家形態を論じるべき憲法制定会議では、クロアチア人議員が審議をボイコットした為に、旧セルビア王国中心の主権国家が生まれた。

初期の事件と混乱

 ユーゴ王国では北部は経済的先進地域、南部は後進地域と経済的な格差があったところに、民族問題が絡み、不安定な政治情勢が続いた。1928年6月には、国会内でセルビア人議員がクロアチア人議員に発砲し、それが原因でクロアチア人の政治リーダー、ラディッチが死亡するという事件も生じた。国王アレクサンダル1世は、混乱収拾策として1929年1月に国王独裁を宣言し、10月に国名を正式に「ユーゴスラヴィア王国」に改称した。また、1930年代の大恐慌の影響により経済状況が深刻化していた中で、彼は1931年9月に立憲制を復活させて改めて国家統合を進めようとしていた。だが、1934年10月、彼はフランス訪問の直後に内部マケドニア革命組織のメンバーによってマルセイユで暗殺された。

 混乱が続く中でユーゴ王国政府が打ち出した方策はクロアチア人への譲歩であったが、それが他の民族の不満を高めていく。この頃、1939年9月に、ドイツ軍のポーランド領侵攻をもって第二次世界大戦が始まった。

 ドイツはユーゴ王国については、1940年9月に結成された日独伊三国軍事同盟への参加を迫った。同年11月のハンガリー、ルーマニアに続いて、ユーゴ王国は1941年3月にブルガリアと共に三国同盟への加盟調印を行った。しかし直後にクーデターが生じ、加盟の決定が覆されたのである。ドイツはユーゴ王国への攻撃を始め、同時にイタリア、ハンガリー、ブルガリアもユーゴ王国領に進撃していった。

チトーによる政治

チトーの登場

 ユーゴ王国は1941年4月17日にドイツに降伏し、国王ペタル2世と政府官僚は亡命した。ユーゴ王国領は、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア各地の支配地、そしてクロアチア独立国に分かれた。

 クロアチア独立国は極右組織ウスタシャによって支配されていた。それを後押ししていたのは、最初はイタリア、その後にドイツである。他方で、各地で占領行政に対する抵抗運動が起きていた。第二次世界大戦中の旧ユーゴ王国領では、旧ユーゴ王国軍残党による右派組織チュニトク、ユーゴ共産党の武力組織パルチザン部隊、それとウスタシャの間で三つ巴の内戦が行われていき、これらの犠牲者は100万人を超えるともされる。内戦を勝ち抜いたのはパルチザン部隊で、それを率いていたのが、両親をクロアチア人、スロヴェニア人とするチトーである。

 チトーは1942年11月に第一回、翌年11月に第二回のユーゴ人民解放ファシスト会議の大会を開催して臨時政府を樹立、解放地域を確実に拡大していった。1945年3月に亡命政府と共に連立政権を結成した後、チトーは11月の憲法制定議会選挙での圧勝という結果を受けて、王政を正式に廃止して「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」の樹立を宣言したのである。

独自の社会主義路線へ

 ユーゴは建国まもない1948年に、国際関係の乱気流に巻き込まれてしまう。ソ連共産党の独裁者だったスターリンは当時、始まったばかりの冷戦構造の中で、「東側」の社会主義陣営を圧倒的な力をもって率いる盟主を標榜していた。そのスターリンとチトーの間で、路線対立が表面化したのだ。

 ユーゴ共産党は、社会主義陣営の統轄組織コミンフォルムから除名されてしまう。そこでチトーは、社会主義国でありながら、安全保障の面では東西のどちらの陣営にも属さない「非同盟」国家としてユーゴを切り盛りしていく路線を選んだ。

 経済面でも、チトーのユーゴは独自路線を打ち出した。市場主義を一定の範囲で導入し、労働者による「自主管理」の社会主義を掲げた。

 表向きは、一見すると自由主義にすら思えるような政治体制だった。しかし現実には、ユーゴスラヴィア国内では、共産党や、それを率いるチトーに対する異論はいっさい許されない独裁政治が敷かれた。

チトー死去後のユーゴスラヴィア

高まった民族主義感情

 1980年に、ユーゴ建国の父でもあった独裁者のチトーが死去すると、連邦国家は、集団指導体制に切り替わった。六つの共和国と二つの自治州から代表一人ずつを集めた8人の「幹部会」メンバーが、一年交代の輪番で国家元首を務めるという形で、特定の個人に権力が集中しないような仕組みだった。

 だがそれと同時に、それまでチトーの強烈な指導力の下で抑えつけられていた、民族主義感情が頭をもたげ始める。相対的に経済発展が進み所得水準も高い「北」の共和国であるスロヴェニアやクロアチアは、自分たちの富が、それ以外の「南」の貧しい共和国を支えるために使われるのは不公平だ、といった不満を募らせていた。

ミシェロヴィッチの登場

 1980年代末、それまでタブー視されてきた民族主義を、自分たちの政治的な地歩を固めるのに利用する指導者が現れる。中でも典型と言えるのが、セルビア共和党で権力を掌握したスロボダン・ミシェロヴィッチだった。

 ミシェロヴィッチはもともと、ユーゴ共和党内のエリート役員として引き立てられ、国立の銀行「ベオバンカ」の頭取を務めるなどの経歴を持ったテクノクラートだった。1986年からセルビア共和国のトップにあたる幹部会議長を務めたイバン・スタンボリッチが、ミシェロヴィッチの昇進を推す後ろ盾となっていた。同じ86年、コソボのアルバニア人やクロアチア人をあからさまに敵視した、歴史学者らによるセルビア科学芸術アカデミー秘密報告書の存在が明るみに出た。その中では、セルビア人は連邦の中で不当に虐げられていると記されていた。その際、ミシェロヴィッチはスタンボリッチの方針に従って、報告書の内容を「暗黒の民族主義以外の何ものでもない」と批判した。

コソボ問題とミシェロヴィッチ

 1987年から、ミシェロヴィッチは急速に、民主主義者へと立場を変え始める。87年4月、連邦内でのセルビア人の処遇に対して不満を持つコソボ自治州のセルビア人たちから要望を聞き取るため、スタンボリッチの名を受けて、ミシェロヴィッチは現地へ出かけた。会場には、多くのセルビア人が詰めかけたが入りきれなかった。あふれた群衆が、現場を規制する警察官と衝突した。その際、ミシェロヴィッチのとった行動が、最初の路線変更の表れとなる。

 ミシェロヴィッチは情勢を鎮めるために外へ出て演説し、「君たちを殴るようなことは誰にもさせない」と約束した。その言葉に、セルビア人群衆は沸き立った。ミシェロヴィッチにとっては、民主主義で人々を動かせるという味をしめた原体験となった。

 ミシェロヴィッチは、自分を引き立ててくれた恩人のスタンボリッチを追い落としにかかり、スタンボリッチをめぐる疑惑などを国営メディアに流した。スタンボリッチは87年12月、セルビア共和国幹部会議長の座を解任された(辞任に追い込まれた)。後続に就いた別の人物をはさんで、89年にはミシェロヴィッチ自身がセルビア共和国幹部会議長の座に就いた。

ユーゴスラヴィア崩壊へ

自由選挙とユーゴスラヴィア

 1980年代末から90年代初めにかけ、連邦国家としてのユーゴスラヴィアが崩壊に向かう中で、タブー視されてきた民族主義を掲げる政治家が台頭したのは、セルビアだけではない。クロアチアでは野党「クロアチア民主同盟」が結党され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、民主主義の立場を標榜する政党「民主行動党」がつくられる。こうしたセルビア以外の共和国での民族主義政党の出現は、冷戦の終了に伴う民主化プロセスとは表裏一体の動きだった。

 ベルリンの壁崩壊を受け、ユーゴ連邦内の共和国でも1990年、相次いで自由選挙が実施されたが、同年4月から5月にかけて選挙があったスロヴェニア、クロアチアでは、いずれも民族主義政党が圧勝し、共産党に代わって政権の座に就いた。

 一方、セルビアでは、ミシェロヴィッチが、そうした東欧民主化の流れとは一線を画し、共産主義者同盟(共産党)の優位を保ちつつ、権力基盤を固めた。連邦政府の最高意志決定機関である幹部会では、自分たちが持っているセルビア共和国の一票以外に、コソボ、ヴォイヴォディナ両面自治州、さらに民族的、社会的に極めて密接なモンテネグロ共和国から代表にもそれぞれ自分の息がかかった人物をすえ、8人の幹部会メンバーのうち、半数の4人を押さえてしまった。事実上の拒否権を手にしたと言える。

 セルビア以外の共和国、特にスロヴェニア、クロアチアの側から見れば、連邦内にとどまって分権を進めようにも、必ずセルビア側の一派による拒否権の壁が立ちはだかる、と判断し、さらに分権独立志向を高めることになった。

スロヴェニアとクロアチアの内戦

 1991年6月25日、スロヴェニア、クロアチアが相次いで独立を宣言した。それまでに、もはやほぼ有名無実の国家体制と化していたユーゴスラヴィア連邦だが、一体性を持つ強制力としてのユーゴスラヴィア人民軍(JNA)は存在していた。その一方、スロヴェニアもクロアチアも、内戦を予期して独自の国防体制、軍備を備える動きを加速させていた。

 スロヴェニアは独立宣言を出した直後から、空港や国境に設けられた出入国管理施設を自分たちの管理下に置いた。そして、JNAがこうした施設を取り返そうと介入に動き、両者の武力衝突が始まる。しかし、欧州共同体(EC)の調停などもあり、翌7月には、紛争は「十日間戦争」と呼ばれるほど短期間で収束し、スロヴェニアは事実上、独立を既成事実として手中におさめた。

 一方、クロアチアの場合は、クロアチア国内で人口の一割を占め、それも一定の地域にかなり集中して住んでいたセルビア人の存在が、大きく事態を左右した。

 1990年春の選挙によって政権の座を手に入れ、共和国大統領に選出されたクロアチア民主同盟のフラニョ・トゥジマンは、もと連邦軍の軍人だが、軍を退役後、歴史学者になった経歴の持ち主だ。クロアチア在住のセルビア人たちにとってみれば、ナチスに迎合して、ユダヤ人と並んでセルビア人を弾圧した過去について、民族主義を振りかざして反省しようとしないクロアチア人指導者が登場したことになる。トゥジマンによる統治下では自分たちの存在そのものを脅かされるに違いないと、危機感を募らせる原因となった。

 クロアチア国内でセルビア人が多かったクライナ地方(クロアチア中部)と東スラボニア地方(セルビアとの国境近く)の両方の地域で、セルビア人たちは新しいクロアチアの体制に対抗して、実力で自分たちの独自の支配地域を確立した。さらに、セルビア本国との統合を志向する動きも見られた。その分だけ、内戦は激しいものとなり、最終的に解決するまでに時間を要することになった。

 1991年末から92年初めにかけて、国連事務総長特別代表として米国のバンス元国務長官がクロアチア独立戦争の平和調停にあたり、停戦を視野に入れた外交を活発化させた。クロアチア国内でセルビア人が自治を宣言した地域である国土の約3分の1相当には、国連の平和維持軍「国連防護軍(UNPROFOR)」が展開して、事実上の国際管理下に置かれた。これにより停戦が実現し、クロアチア内戦は当面、収束することになった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(ボスニア内戦)①背景

 ボスニア内戦は、ユーゴ崩壊過程で起きた紛争の中で最大の20万人以上という犠牲者を出すことになる。なぜ、そこまで激化したのか。

 旧ユーゴを構成していた共和国のうち、ボスニアを除く五つの共和国については、国名に冠される一つの民族が大半を占めるという人口構造があった。非常におおざっぱに言ってしまえば、民族単位で構成していた旧ユーゴ連邦内の共和国をそれぞれ母体として、結局は「民族自決」原則に沿った形の国民国家が出来上がったと見ることが出来る。

 だが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナには、同じ原則をそのまま通用させるわけにはいかなかった。まさに多民族国家だったゆえの矛盾だった。

 ボスニアでは、最大民族のボシュニャク人でも人口の4割強と、過半数を占めるには至っていなかった。セルビア人が3割、クロアチア人2割弱。国境を接する両隣の共和国での主要民族がそれぞれ相当数、ボスニア内にも住んでいたことになる。

 1990年11月にはボスニアでも民主化された形で議会選挙が実施される。民主主義政党が躍進した構図自体はユーゴ内の他の共和国と同じだったが、単独の政党ではなかった。ボシュニャク人の「民主行動党」、セルビア人の「セルビア民主党」、クロアチア人の「クロアチア民主同盟」の三党それぞれが力を獲得した。

 三党は当初、連立政権を樹立させた。最大民族でもあるボシュニャク人の民主行動党を率いるアリヤ・イゼトベゴヴィッチが国家元首にあたる幹部会議長の座に就いた。かつては、イスラム思想の再燃を訴えたことが過激思想とみなされ、1988年末までは獄中にあつた人物だ。

 一方、セルビア人側では、精神科医で詩人でもあったラドバン・カラジッチが党首として率いるセルビア民主党が権力基盤を固めていった。

 クロアチア人の民主主義者たちが集い、彼らから得票を集めたのはクロアチア民主同盟だったが、この党名はクロアチア「本国」のトゥジマン大統領が率いる政権与党と同じであり、その影響下にあることも明白だった。

 ボスニアの連立与党三党は1990年11月、ボスニア初の民主的な議会選挙があった直後には、ボスニアの将来像として、あくまでユーゴ連邦の中に留まるべきだという方向性を前提として政治活動をしていた。だが、翌91年に隣のクロアチアが独立を宣言して内戦が始まると、民主行動党とクロアチア民主同盟は、ボスニアの「主権」を重視し、やはり連邦からの分離独立を目指すべきだという考えに傾いていった。他方でセルビア民主党は、あくまでユーゴ連邦維持を求める主張を変えず、双方の立場の違いが先鋭化していく。

 ボシュニャク人とクロアチア人、それぞれの民主主義者らの観点からは、スロヴェニアとクロアチアが抜けた連邦の中にボスニアが留まっても、もはや「分母」となる連邦の枠組みが変わってしまった以上、相対的にセルビアの発言力が増すことは必至で、ボスニアの主張が聞き入れられることは無いだろうという判断が働いた。

 逆にセルビア人民主主義者たちにとっては、ボスニアが連邦から離脱して独立を達成すれば、自分たちはそのボスニアの中では「少数派」に転落してしまう。独立を宣言した隣のクロアチア内に住む、同じセルビア人たちの境遇を見て、ボスニアのセルビア人勢力が抱いていたそうした危惧は確信へと変わっていき、ボスニア全体については、セルビア本国が主導するユーゴスラヴィア本国が主導するユーゴスラヴィアという連邦国家の中にあくまで留まらせるのが最善、という考え方が支配的になった。

 こうした相反する考え方が衝突し、対立が深まった結果、ボスニア共和国の連立政権は1991年10月に崩壊した。さらに、ユーゴスラヴィア連邦からボスニアの分離独立を目指すことでは一致できたボシュニャク人、クロアチア人の二つの民族主義勢力も、その後、ボスニアをどういう国家として運営していくのか、その国家像をめぐっては違いが存在していた。ボシュニャク人勢力は、自分たちが最大の存在であるという「数の力」を利用できる、中央集権的な国家としてのボスニアを目指した。一方のクロアチア人勢力は、国内では分権を進め、自分たちがクロアチア本国との連携を享受できるよう、支配地域を設けた自治を可能にするよう求めていた。

 民主主義勢力がそれぞれの打算で互いを攻撃し、足を引っ張り合う三つ巴の構図が、こうして出来上がっていった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(ボスニア内戦)②NATOによる空爆

 やがて始まったボスニア・ヘルツェゴヴィナの内戦は結局、三年半以上続いた。犠牲者のうち、約4割が最初の一年で亡くなったとされる。1993年以降は、あまり大きな戦局の変化は見られなくなり、激しい戦闘は続いていても、一進一退の状況が続くようになる。

 欧米の多数派は当初よりセルビア人悪玉論を支持していた。それを定着させたのが、1994年2月の「マルカレ市場事件」であった。ボスニアの首都サライェヴォの青空市場に砲弾が撃ち込まれ、多数の市民が死傷した。当時のサライェヴォは、周囲の丘陵を占拠していたセルビア人部隊によって封鎖されていた為に、砲弾はセルビア人によって発射されたものと判断されたのである。NATOは、サライェヴォ近郊のセルビア人部隊に撤退を迫って、最後通牒すら発した。そしてNATOは4月にゴラジュデ付近のセルビア人に対して、創設後初めての空爆を行ったのである。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争(ボスニア内戦)③収束

 停戦合意を受けて、1995年11月1日からアメリカのオハイオ州デイトンで平和交渉が始まった。デイトン合意の仮調印式は11月21日午後3時に始まり、クリストファー(アメリカ国務長官)、ミシェロヴィッチ、イゼトベゴヴィッチ、トゥジマンが11の付属書と105の地図を伴うデイトン合意(正式名称は「ボスニアにおける平和合意に向けた一般的と枠組み」)への署名を行った。ボスニア内戦はここに終了したのである(正式調印は12月14日)。


参考文献

月村太郎(2006)『ユーゴ内戦―政治リーダーと民主主義』東京大学出版

梅原季哉(2015)『戦火のサラエボ100年史 「民族浄化」もう一つの真実』朝日新聞出版


ハンドルネーム:tonanta


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