日清戦争7
出典: Jinkawiki
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.開戦まで
日清両国が朝鮮の支配をめぐって戦った戦争。1876(明治9)年、日本は軍事力を背景に挑戦を開国させ、政治・貿易面で影響力を増大させた。そのため宗主国を辞任する清国との対立を深め、壬午軍乱や甲申事変が起こった。1894年朝鮮南部で東学教徒を中心に農民反乱(口語農民戦争)の勢力が強まると、朝鮮政府は清国鎮圧のために援兵を要請した。日本も公使館と居留民の保護を名目に出兵し、ソウル近郊で日清両軍が対峙した。両国間の外交交渉は進展せず、焦慮した日本軍は。7月23日朝鮮王宮を占領、25日日本艦隊豊島沖で清国軍艦を攻撃し、成歓・牙山で陸上戦闘も開始されて日清戦争は開戦(宣戦布告は8月1日)。
.開戦後
日本陸軍は9月平壌の戦で勝利し、連合艦隊は黄海の海戦で清国の北洋艦隊を破って優位にたった。10月鴨緑江を渡った日本軍は11月旅順を占領、翌年1月北洋艦隊の根拠地威海衛を攻撃、2月これを占領、3月までに牛荘・営口を占領して遼東半島の主要部を制圧した。さらに3月下旬に講和条件を有利にするため澎湖列島に上陸。3月清国の全権李鴻章と下関で日本側全権の首相伊藤博文らとの間に講和会議が開かれ、4月17日日清講和条約が締結。
.講和条約
講和条約の内容は、清国は朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲、賠償金2億両の支払い、重慶ほか3港の開港など。6日後に露・仏・独3国は遼東半島の清国への還付を要求し、日本は5月この三国干渉を受け入れた。日本国内では国民各層に戦争熱が急騰し、連戦連勝の新聞報道に酔った。三国干渉は戦争熱に冷水を浴びせ、国際政治の厳しさを痛感させられた。他方、清国はアジアの大国としての権威を失墜し、巨額の軍事費や賠償金支払いは列強からの借款に依存し、列強による中国分割が始まった。日本も軍備拡張を中心とする日清戦後経営に着手し、ロシアの影響力を排して、朝鮮への支配を回復する機会をねらい、東アジアも帝国主義時代の利害対立の場に転化した。
.参考文献
尾形勇ら編集『歴史学事典 第七巻 戦争と外交』(1999)東弘社
藤野保ら編集『日本史事典(普及版)』(2012)朝倉書店
(執筆:ちひろ)