チリにおける植民地期の教育
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
チリは、約250年にわたるスペイン植民地であった。スペイン王室は、本国における教育の思想、制度その植民地にも持ち込んだ。それは、スペイン本国と同じく階級的な生活を強く持った教育であった。征服戦争が一段落つき、植民地での生活が軌道に乗り始めると、まもなく教育の問題が意識されるようになった。征服戦争に従事したスペイン人たちは、スペイン語の読み書き能力さえあやしい者が大多数であったが、大農園主や商人として豊かな生活を送るようになった彼らは、子弟に、その身分にふさわしい教育を受けさせることを望んだからである。一方、大農園で小作人として働く貧しいスペイン人や混血によってうまれたメスティーソに対する教育は、ほとんど関心の外に置かれていた。
植民地における教育の事業は、ほぼ全面的に、カトリック教会、特にその修道会の手に委ねられた。16世紀の末になると、修道会が相次いでチリに到着した。これらの修道会は、各地に修道院を設置するとともに、これらに付属する形でコレヒオを設置し、教育活動を開始する。1595年、ドミニコ会が設置したコレヒオがその最初のものとなった。それは当時のヨーロッパの教育伝統に沿って、ラテン語の学習をベースにして哲学や修辞学などの教養科目を教えるものであった。こうしたコレヒオは、ごく少数の植民地エリート層の子弟を受け入れていた。また、コレヒオには、しばしば、スペイン語の読み書きを教える初等学校が併設されていた。こうしたコースには、時には先住民の首長の子弟なども入学させ、スペイン語の教育とカトリックの教養などが教えられた。とりわけ、イエズス会は、教育事業への意欲と体系的な教育方法を持って積極的な活動を展開し、植民地における教育事業を主導していった。
スペイン人植民者の教育要求は、高等教育機関の設置におよぶ。すでに、ラテンアメリカ植民地経営の拠点であるメキシコ市やペルーのリマ市を始めとして、植民地の主要な都市には、植民地大学が設置されていたからである。チリのスペイン人たちは、王室や教会に対して高等教育機関設立の請願運動を開始する。それは、まず17世紀半ば、ローマ法王庁から、ドミニコ会とイエズス会の運営する2つのコレヒオに学位授与権を与えて高等教育機関(教皇大学)に昇格させるという認可を得ることで達成された。この後、これらの大学では、教養と神学の学位が授与できるようになった。教皇大学の設立により、聖職者向けの学位コースは提供されるようになるが、法学や医学のコースはチリでは履修することができなかった。彼らは、子弟をペルーのサン・マルコス大学に送らなければならなかった。そのため、再び、サンティアゴでは、スペイン王室に対して、王位大学を創設することを求める運動が展開された。こうして、1738年2月に、サンティアゴ市に王立フェリペ大学の創設を認可する勅令が下された。実際の大学設立までは時間がかかり、1747年に学長が任命され、1756年に正式に大学創設の式典が開催された。先の2つの、教皇大学も、この王位大学に吸収される。ここには、哲学、神学、数学、医学、法学の各学部が置かれた。授業はラテン語で行われ、教授陣の多くは聖職者で占められた。大学の財政は、主としてサンティアゴの市参事会から支出されたが、大学の予算は不足し、大学の運営はしばしば困難に陥った。植民地時代には、女子のための教育機会は実質的に存在しなかった。ごく例外的に、良家の子女が女子修道院において、キリスト教教義、読み書き、音楽、ダンスなどを習うことがあるくらいであった。
今日の公立教育と私立教育と言う枠組みから見るなら、植民地期の教育の性格が極めて融合的である。植民地統治は、公権力と宗教権力が極めて密接に結びついた形で行われていた。教皇大学と王位大学に、私立と公立との違いがあると見られないこともないが、両者の相違は、実質的には、法学や医学のコースを含むか否かの差であり、認可主体の相違は、ほとんど意識されていなかった。実際に植民地大学の運営は聖職者たちに委ねられていた。
参考文献
ラテンアメリカの教育改革(2007) 牛田千鶴 編集 行路社
Rei