歌舞伎2
出典: Jinkawiki
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「かぶき」とは、もともと「傾(かぶ)く」という言葉が起源。安土桃山時代から江戸時代に移る時に、豊臣家の残党や、仕事のない浮浪者が巷に溢れていたと言われている。
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起源
「歌舞伎」のはじまりは、今から約400年前の江戸時代のこと。京都で「出雲の国の阿国(おくに)」が「かぶき踊り」を踊ったのが起源とされている。
種類
幕府により、「女歌舞伎」が禁止されたのちは、成人前の少年による「若衆歌舞伎」が流行する。「若衆歌舞伎」では、美少年が女を演じるのですが、これもまた風俗を乱すものとして、幕府に禁止されてしまいます。なぜなら、当時は、美少年は男性からも性の対象として見られるのが当然だったので、美少年である役者をめぐるトラブルが多発したからである。「若衆歌舞伎」が禁止された後に出てくるのが、現代の歌舞伎である原型である「野郎歌舞伎」である。江戸では、初代・市川團十郎が得意の「荒事」を演じ、人々の注目を集める。上方では、「和事(わごと)」という、初代・坂田藤十郎によって完成された、柔らかで優美な演技が流行する。
役の表現
江戸時代の人々は、性別や身分、年齢、職業、立場などによって、髪型や服装、言葉遣い、使用する道具などがおおよそ決まっていました。歌舞伎の扮装・小道具・演技などは、これらの決まりごとをベースにして、役の性格を端的に表現すための誇張や様式化が行なわれている。 扮装や小道具における誇張や様式化の方法は、以下のように「時代物(じだいもの)」や「世話物(せわもの)」などの作品の設定や役柄などと密接に関わっている。
演目
勧進帳・青砥稿花紅彩画・鷺娘・河庄・廓文章などがある。
舞台の変動
元禄時代初期の最大の特徴は、舞台が能舞台を模した構造になっており、客席の中に張り出している「本舞台(ほんぶたい)」と下手に伸びている「橋掛り(はしがかり)」によって構成されている。この構造からも初期の歌舞伎が、先行芸能である能や狂言の影響を強く受けていた。 江戸時代後期の特徴として1つ目は、客席の中を通る「花道(はなみち)」が設置されている。「花道」の成立時期やその経緯についてははっきりしたことは分かっていないが、18世紀に入った頃に常設されたと考えられている。ただし当時の江戸の芝居小屋の「花道」は、現在とは異なり、図のように「本舞台」から斜めに設置されていた。 2つ目は、客席全体が屋根で覆われている。幕府から許可が下り、1724年[享保9年]には瓦葺[かわらぶき]の屋根で覆われた芝居小屋が完成した。これ以降徐々に客席には床が張られるようになり、縦横に板が渡された「枡席(ますせき)」が作られるようにななった。 歌舞伎座は、「演劇改良運動」の影響を受け、劇場の洋式化を目的として建設された劇場。
(参考文献)
[1] 日本文化を知ろう![歌舞伎について]
[2] 歌舞伎への誘い
編集:b.m