ラスキン
出典: Jinkawiki
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1943年、ニューヨークで生まれる。1964年にニューヨーク州立大学ストニー・ブルック校で数学の学位、翌年は哲学の学位を取得する。ペンシルベニア州立大学で、音楽プログラムの研究を行い1967年に修士号(コンピュータ・サイエンス)を取得する。 その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校に進み、1970年から1974年まで同校の助教授(コンピュータ・サイエンス)を務める。 大学を辞めた後、コンピュータ・コンサルタント業を始めたラスキンは、1976年にApple IIのBASIC言語向けのマニュアル制作を手がけるBannister and Curn社を設立する。ラスキンが、スティーブ・ジョブズやスティーブ・ウォズニアックと初めて出会ったのは、西海ピュータ・フェアーで、当時Apple IIがデビューしたばかりの頃であった。1978年、ジョブズはラスキンと彼の会社を丸ごと買収し、アップルコンピュータに雇い入れた。 ラスキンは、アップルで社員番号31と出版部門の責任者、新製品の調査業務を与えられた。彼は、Apple IIが一般の人々には複雑すぎると考えていた。ラスキンにとって拡張スロットの存在は悪であり、ディスプレイやキーボード、可能であればプリンタも一体化した完結なポーブルマシンを理想としていた。Apple IIIの開発中にも関わらず新しいコンピュータ製品の開発許可を求めた。アップルの取締役であったマイク・マークラはラスキンに500ドル台のゲーム機(コードネーム:アニー)の担当を打診したが、結局ラスキンの要求は受け入れられた。彼はサンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い入れ、またApple IIのメンテナンス担当だったバレル・スミスなど数人で1979年にマッキントッシュプロジェクトを開始。AppleV またはApple32という商品名で1981年に500ドル程度(すぐに1000ドル程度に変更)での販売を考えていた。 細々とした開発中、パートタイムでスティーブ・ウォズニアックもハード設計の手伝いをしていた。最初からマッキントッシュに批判的であったスティーブ・ジョブズがLisaプロジェクトを追われると、1981年にマッキントッシュ・プロジェクトに参画した。マッキントッシュではハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役であったジョブズの働きで予算も開発メンバーも増えた。しかし、Lisaを上回るものにしようとするジョブズがソフトに対しても介入を行い、2人の対立は深刻化していく。結局1982年3月、ラスキンはアップルを去った。同年、自身の手でインフォメーション・アプライアンス社を設立した。