ピノチェト

出典: Jinkawiki

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概要

本名:アウグスト・ホセ・ラモン・ピノチェト・ウガルテ

1915~2006 チリの軍人であり、政治家。1973年、クーデターによりアジェンダ政権を打倒して実権を握る。1974年、大統領に就任。新自由主義的な政策により経済成長を実現した。大統領退任後、人権侵害や公金横領の罪に問われ告発された。2006年12月10日、急性心不全で死去。91歳だった。その軍事独裁政権下の反政府活動弾圧で3000人以上の犠牲者を出した責任を問われ裁判中であった。10月の裁判では、特に秘密収容所ビジャ・グリマルディでの拷問や殺人への関与が問われたが、元大統領は「記憶にない」と答えていた。元大統領の死去に伴い、国葬にすべきか問題となったが、国民の55%が反対だという。ピノチェト政権の人権抑圧には反発が強く、バチェレ大統領もかつて民主化運動に関わり、ビジャ・グリマルディで拷問を受けたことがある。一方で元大統領が「新自由主義」をいち早く取り入れ、チリの経済を立て直したことを評価する支持者もまだいるということである。



チリ軍部クーデター

1973年9月11日、チリにおいて、ピノチェト将軍の指揮する軍部によって、アジェンデ大統領の人民連合政権が倒され、権力を掌握したピノチェトによる軍政がおこなわれた。

 アジェンデ大統領による社会主義政策により産業の国有化が進めれたことに反発した軍部及び保守派は、アメリカ(ニクソン政権)のCIAから、資金と軍事支援を得てクーデターを断行した。アジェンデ首相は首相官邸で武器を取って戦ったが、最後は自殺した。このクーデターには選挙で合法的に選ばれた政権を武力を用いて倒したということで世界各地から非難の声があがるなど国際的な反響も非常に大きかったが、それよりも人々を驚かしたのは人民連合派に対する軍部の迫害の激しさであった。クーデターと同時に、アジェンデ派と目される人々は根こそぎ逮捕され、臨時の強制収容所と化したリチ・スタジアムに連行されて、食べ物も水も与えられず何日も放置されたあげく、拷問にかけられて多くの人々が死亡した。クーデター直後に殺害された人々は二千人から三千人、またクーデターの一年後になお投獄されていた人々は七万人とも言われる。



新自由主義による経済政策

 この民営化と外国資本の流入は一時的な経済の活況を見せ、「チリの奇跡」と言われるたが、この経済政策は新自由主義経済を主張するアメリカのシカゴ大学のミルトン=フリードマンの下で訓練を受けた「シカゴ・ボーイズ」という経済学者たちが、アメリカ政府の意を受けて行ったものであった。

 また、この改革は労働市場の自由化と労働組合運動の破壊を通じて短期雇用と流動化を強制していった。結果的に、貧富の差が拡大し、1980年代には停滞に逆戻りしてしまった。



参考文献

アリエル・ドルフマン(2006)「ピノチェト将軍の信じがたく終わりなき裁判―もうひとつの9・11を凝視する」現代企画室

中王子聖(2005)「チリの闇 行方不明者を持った家族の証言」彩流社


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