塩の行進

出典: Jinkawiki

2019年1月16日 (水) 19:57 の版; 最新版を表示
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 1930年、ガンディーは突如、塩税法を犯す行動を始めることを宣言する。塩はインドでは専売制で、勝手に作ってはいけないことになっていた。 3月12日、自分の道場から出発したガンディーと弟子たちは、ダンディーの海岸までの240マイルの「塩の行進」を開始した。毎日朝の4時に出発し、途中の村で演説をするガンディーに人々は熱狂した。そして4月6日、ガンディーは塩税法を破って自ら塩をつくり、全インドで再び不服従運動を展開することを命令した。 これによって、ガンディーはまた逮捕された。イギリスはロンドンでインド人の代表を招いて第1回の円卓会議を開いたのだが、国民会議派は参加しなかった。 そこでインド総督はガンディーを釈放して交渉に入った。そして、ガンディーは不服従運動をやめて第2回円卓会議に参加することになる。 この時のガンディーの行動にがっかりした人々も多くいたという。ガンディーは人々を反英運動に結集しながら、運動が高まると急にそれを裏切るような行動に出る。彼の宗教的理念の高尚さと裏腹に、ガンディーは政治的には非常に現実的な計算によって行動していたと考えることもできる。 1935年の新インド統治法は、この時のガンディーとの協定が実現されたような内容である。すなわち、州のレベルで選挙によるインド人の内閣が成立したのだ。 第二次世界大戦がはじまったとき、イギリスのインド総督はインド人に相談せず参戦を決定し、それに対し国民会議派は反発した。 しかし、ムスリム連盟はイギリスに協力して、1940年ラホール大会でインドとは別にパキスタンという国を建国することを決議する。 国民会議派の中には、「敵の敵は味方」として、インドを脱出してドイツへ逃亡し、さらに日本へ渡って、日本軍の捕虜となったインド兵を率いてイギリスと戦ったボーズのような人物が現れた。大戦中、会議派は「イギリス人はインドから立ち去れ」という決議をして、ほとんどの指導者は捕らえられてしまった。しかし、大衆運動として反英運動は展開され続けたのだ。

参考文献 忘れてしまった過去100年の世界史 植村光雄(著)中経出版 2004年5月9日


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