イスラム国7

出典: Jinkawiki

2019年1月18日 (金) 13:54 の版; 最新版を表示
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目次

イスラム国について

「中東こそ危険」というイメージが日本に植えつけられたのは、2014年に勢力を伸ばして世界を震撼させたイスラム国の出現が決定的だと言われている。イラク戦争、その前の9.11米国同時多発テロ事件、さらにその前の湾岸戦争と、「危険」なイメージを醸し出す戦争やテロは過去にも多々あったが、イスラム国の登場とそれに対する世界規模での恐怖心の蔓延、警戒心が底知れないものであったといえる。 過去の紛争をきちんと解決してこなかったことのツケとして、イスラム国という存在となって私たちの前に現れた。シリアやイラクに拠点をおいて3年半にわたり勢力を誇っていたイスラム国は、壊滅状態にある。


破壊の対象

イスラム国がイラクで拠点としていたモースルは、3年1ヶ月の支配のあと、およそ9ヶ月の戦闘を経て解放された。その後も、イスラム国はイラクにおける支配領域のほとんどを失った。2011年からイスラム国が拠点を築いてきたシリアでも、2017年10月20日には米軍が支配するシリア民主軍が「ラッカの解放」を宣言した。その結果、イスラム国の支配地域は両国ともに、わずかに残されるのみとなった。これらの解放を機に、すでにイスラム国は終わったという発現が相次いだ。 だがその一方で、イスラム国の支配の非道さと戦闘の激しさが改めて露にされた。国連によれば、空港や官庁街など重要施設は言うに及ばず、旧市街地だけでも5500軒の住宅の復興が必要な状態とされた。


イスラム国の残虐さ

破壊性もさることながら、世界に流布したイスラム国のイメージは、その残虐さ、残酷さだろう。イスラム国の登場以来、シリアやイラクでイスラム国の領域に入り込んだ世界各国のジャーナリストから援助団体、軍人や観光客まで、拉致して斬首するという事件が相次いだ。2014年に日本人2人がシリアで拉致され、翌年初めに被害された事件は、日本社会にもイスラム国問題の深刻さを突きつける出来事になったと言われる。斬首ばかりでなく、生きたまま焼き殺すというケースもあった。そして殺害の予告と結果を必ずビデオで録画し、脅迫の言葉とともにユーチューブなどで世界に発信するという、恐怖映像さながらの手法がとられた。 最も深刻とされたのは、彼らが支配した地域、特にイラクでの人的被害である。 イスラム国が残した最も深刻な爪痕は、宗教的、宗派的、民族的に共存していたイラクの人々の間を、修復不能なまでに引き裂いたことである。それは、内戦の続くシリアでも同じだろう。


なぜ出現したのか

1991年湾岸戦争が起こり、フセインはその後彼なりの「イスラーム」推進政策を進めた。湾岸戦争でアメリカに痛い目にあわされたフセインが、アメリカに対峙する上でイスラームを利用した、ともいえる。国際社会から経済制裁を受け、対外不信感と被害者意識が蔓延するイラク社会のなかで生まれた独特の、厳格なイスラムへの志向がここに生まれた。


外国人戦闘員

イスラム国が国際的に目を引いたことのひとつに、彼らが拠点とするシリアやイラクに多くの外国人戦闘員が流入したということがある。日本からも、2014年に「イスラム国」へ参加しようと計画していた若者が、「私戦予備および陰謀」の疑いで家宅捜査を受ける、という事件が発生した。 宗教や民族的出自に関係なく、どこかで挫折した人々にとって、イスラム国は一種の「解放地域」に見えたかもしれない。シリアの対イスラム最大の激戦地となったコバーニで命を落としたカナダ人の青年は、児童虐待の両親を離れて祖父母のもとで暮らした経験を持ち、イラクのラマーディで自爆犯として19年の生涯に閉じたオーストラリア出身の少年は、母親を亡くしたことを契機にイスラム教に改宗していた。そう考えると、イスラム国は信仰熱心でイスラムとはなにかを熟知した人々の集まりだというわけではないことがわかる。


参考文献

酒井啓子(2018)『9.11後の現代史』株式会社講談社


  人間科学大事典

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