大東亜共栄圏2
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
大東亜共栄圏とは、第二次世界大戦を背景に1940年第二次近衛内閣以降、45年敗戦まで唱えられた日本の対アジア政策構想。その建設は「大東亜戦争」の目的とされた。東条英機の表現によれば、大東亜共栄圏建設の根本方針は「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序を確立」しようとすることにあった。しかし実際は、東アジアにおける日本の軍事的、政治的、経済的支配の正当化を試みたものにほかならなかったといえる。第一次近衛内閣当時の「東亜新秩序」は日本、満州、中国を含むものにすぎなかったが、南進論が強まるにつれてインド、オセアニアにいたる大東亜共栄圏構想に拡大された。大東亜省の設置と大東亜会議の開催はこのような方針の具体化にほかならない。
大東亜共栄圏構想の誕生
大東亜共栄圏建設の目的は日米戦争の建前、資源獲得のためのスローガン、あるいはアジアを植民地から解放することであった。また、大東亜共栄圏構想が公表された1940年という時期がフランス降伏以降のドイツ勝利への警戒感、より具体的にはフランスとオランダという植民地宗主国を占領したドイツが開催するであろう講和会議への危機感であった。そのため外交官であった松岡洋右は「松岡外交」を推し進めた。松岡は「大東亜共栄圏」という用語を積極的に打ち出していった。また、東アジアに共存共栄の広域経済圏をつくりあげるという発想は古くから主張されていた。満州事変期の「日満一体」は、日中戦争期には「東亜新秩序」とその名を変え、東南アジア諸国を侵略対象とする1940年代初頭には「大東亜共栄圏」が主張されるに至った。しかし、このスローガンも太平洋戦争が日本の敗色濃厚になり、日本からの物資供給が途絶え、逆に諸国からの日本への物資収奪が強行されるなかで色あせ、「共栄圏」は「共貧圏」へと変えていったのである。
概念
大東亜共栄圏を語る上で重要な概念として、「八紘一宇」という、[天下・全世界を一つの家にすること]の意味のある熟語が用いられることがある。
有馬哲夫 1949年の大東亜共栄圏を知る 新潮社 2014 河西晃祐 大東亜共栄圏 株式会社講談社 2016