日英同盟2
出典: Jinkawiki
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概要 1902年、イギリスと日本が締結した二国間同盟。中国・韓国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的としした。イギリスにとっては「光栄ある孤立」の外交姿勢を破棄したことを意味し、日本にとっては初の軍事同盟を締結してアジアでの優位を獲得することが狙いであった。その後、3次にわたって改訂され日露戦争、第一次世界大戦で重要な役割を担ったが、国際協調外交の高まる中で開催されたワシントン会議の結果、1922年に四ヵ国条約で廃棄された。日清戦争後に朝鮮(朝鮮王朝)で次第に勢力を強め、さらに義和団事件後も満州への居座り、南下政策を強めるロシアに危機感を持つ日本と、三国干渉や中東におけるロシア・ドイツ・フランスの進出を脅威と感じているイギリスが接近するようになった。日本では元老山県有朋、駐英公使加藤高明らが積極的に日英同盟を主張したが、一方で伊藤博文や井上馨らは日英同盟よりも、ロシアの満州支配と日本の朝鮮半島支配を相互に認め(満韓交換論)、ロシアと提携する方が国益につながるとの見解があり対立していた。両派の対立は結局、ロシアが1900年の義和団事件後も満州から撤退しないことから、ロシアに対する警戒感が強まり、日英同盟論に決することとなった。
第1次日英同盟
1902年1月にロンドンで同盟条約が締結された。内容は、イギリスの清国における特殊権益と、日本の清国・朝鮮(大韓帝国)における特殊権益を相互に承認し、第三国と戦争となった場合、他の一方は中立を守ることを約した防御同盟であった。日本はイギリスとの同盟を背景に、日露戦争を戦い、イギリスは規定どおり厳正中立を守った。
第2次日英同盟
日露戦争の終わる直前の1905年8月に改定された第2次日英同盟は、同盟の適用地域が東アジアおよびインドと拡大されてインドにおけるイギリスの、朝鮮(大韓帝国)における日本の優越権をそれぞれ認め、また同盟義務も第三国から攻撃された場合は相互に軍事的援助の義務を負うという本格的な軍事同盟に深化した。
第3次日英同盟
さらに1911年の第3次日英同盟ではドイツの脅威を対象に加えることとなった。一方で、日露戦争後に悪化した日米関係を懸念したイギリスは、日英同盟の対象国からアメリカを除くことを望み、その趣旨を盛り込んだ。 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟の規定に従い、イギリスに対する軍事支援の名目で参戦を申し出て、中国大陸と太平洋地域のドイツ軍事基地を攻撃した。当初イギリスは日本の参戦を要請したが、日本が1915年、二十一カ条の要求を出すなど、中国での権益拡張をあからさまにすると、次第に警戒するようになった。
参考文献 政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として 坂井秀夫 創文社