アラブの春11
出典: Jinkawiki
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アラブの春とは
2011年1月14日、チュニジアで前年の暮れから始まっていた反政府抗議行動が、ベン・アリー政権を崩壊させた。それがエジプトに飛び火し、1月25日に首都カイロのタハリール広場で始まった大規模デモは、2月11日に、ムバーラク政権を退陣に追い込んだ。チュニジアを発端とし、エジプトを強力な発信源として、アラブ諸国に変革の波が広がっていった。目的は独裁政権の打倒で、当時はこの運動が新たな時代の幕開けに通じる希望の光だと信じられていた。多くの国で独裁政権が倒される結果となったが、社会の不安定化によって内戦が勃発する国や、再び独裁政権に戻ってしまった国、イスラーム過激派組織の台頭など、新たな問題に繋がっている。必ずしもすべての国で成功した革命ではなかった。
背景にあるメディア変化
衛生放送や携帯電話やインターネット、そしてソーシャルネットワーキングサービス(SNS) といった、矢継ぎ早に現れた新しいメディアによって、それまで不可能だった社会から政権に対する異議申し立てが可能となった。この変化にまだ各国の政権側が対応できていない一瞬の隙に、「アラブの春」は生じた。「アラブの春」による政権の揺らぎは、自由な政治の空間を短い期間、各国に開いた。それまで不可能であった自由な発言、弾圧されていた結社が、一気に可能になった。しかし政治活動が自由になり、政治参加が可能となったことで、各国の社会の中に深く走る亀裂の存在が露わとなった。
各国の状況
エジプトでは選挙をするたびにムスリム同胞団が勝利し、自らの手に権限を集中させていき、それに危機感を抱いた広範な勢力との間に決定的な分断が生じ、反発を招き、軍事クーデターとそれを礼賛する反革命デモの勃発を招いた。 リビアでは、カダフィ政権崩壊後、地域主義や部族のつながりでまとまる小集団が割拠し合従連衡を繰り返す。 イエメンは合議による新体制設立を目指したものの、疎外されたフーシー派の反乱が主要地域を制圧し、隣国のサウジアラビアとUAEの軍事介入をもたらした。
イスラーム政党とアラブの春
「アラブの春」によって、中東の市民が暴力や憎しみではなく、選挙や対話によって、イスラーム主義を含む様々な選択肢を自由に議論できるようになった。そこには、それまでの中東にはほとんど見ることができなかった、自由と寛容の空気が生まれつつあった。 そうしたなか、イスラーム主義者たちは「イスラーム政党」を結成し、積極的に民主政治へとコミットしていった。イスラーム政党とは、「イスラームに思想的基盤を置く政治イデオロギーに立脚する政党」であり、1. 政党と自己規定する政治組織であること、2. 何らかの形で公然と「政治へのイスラームの適用」を実現すべき目標として掲げていることを特徴とする。 例えば、チュニジアのナフダ党、パレスチナ自治政府のハマス、レバノンのヒズブッラー、エジプトのムスリム同胞団系の自由公正党などが挙げられる
アラブの春の今後
国際社会は一連の「アラブの春」に関して,各国の民主化への動きを支持してきた。政府当局による暴力的な弾圧に対しては,リビアのように国連安保理決議に基づく軍事行動も展開した。現在,民主化デモが発生した多くの国で,民主化に向けた政治プロセスは前進しつつあるが,経済格差や雇用の面では課題が山積している。チュニジアやエジプトなどで政権党となったイスラーム系政党の政権運営能力には要注目で,今後,新体制への不満が先鋭化し,経済成長に欠かせない社会の安定が失われる危惧もある。
参考文献
酒井啓子(2014) 『中東から世界が見える~イラク戦争から「アラブの春」へ~』岩波書店
池内恵(2018)『シーア派とスンニ派』新潮社
外務省『わかる国際情勢』https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol87/index.html
ハンドル名 furami