新渡戸稲造2
出典: Jinkawiki
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【新渡戸稲造】(1862~1933)
明治から昭和前期の教育家・思想家。キリスト教信者。旧五千円札の肖像人物。 陸奥(現在の岩手県盛岡市)生まれ。
(キリスト教との出会い)
新渡戸は札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学する。「少年よ大志を抱け」で有名なウィリアム・クラーク博士が農学校創立時に副校長として一年赴任しており、博士が学生に与えた影響は甚大なものであった。そのため札幌農学校の一期生は全員がキリスト教信者となった。新渡戸たち二期生とは入れ違いであったが、農学校はキリスト教熱が高く、入学前からキリスト教に興味を持っていた新渡戸は入学一ヶ月後にはキリスト教信者になっていた。同期に内村鑑三がいる。 農学校卒業後しばらくは北海道開拓に従事していたが、学問への意欲が高まり、東京大学に進学する。しかし東大の授業は彼の望んでいたものではなく、23歳の時東大を退学した。「願わくは、我太平洋の橋とならん」を信条に掲げていた新渡戸はその言葉どおり、私費でアメリカに留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学する。渡米後、彼の想像していたキリスト教とは異なったもので、煌びやかなアメリカの教会に失望しつつあった。その頃出会ったのが、クエーカーであった。質素な建物、古風な服装、礼拝も宗教的感動が生じたものだけが簡潔に感想を述べる姿に、札幌でのキリスト経験と重なり、正式に会員になった。
(国際結婚)
新渡戸は国際結婚の先駆者の一人である。後に彼の妻となるアメリカ人のメリー・エルキントンと出会ったのは、クエーカーたちの交流を通してである。しかし結婚までの過程にはさまざまな障害があった。当時西洋人を妻にすることは日本では異例であり、またメリー側にとってこそ、アジアの未開社会である日本人と白人の上流階級の娘が結婚することに対し両親兄弟、クエーカーの人々さえ反対し、アメリカ人は稲造に対し差別と偏見と敵意を向けた。しかし二人の思いは変わらず、徐々に状況が緩和され、メリーの親戚やクエーカーたちも二人の結婚に賛同し始めた。このことは「太平洋の橋」の一つの実践となった。
(武士道)
新渡戸はアメリカでの留学経験を通して、日本のアイデンティティを確認した。それはアメリカの教育の原点にキリスト教的モラルがあるのに対し、日本の道徳が武士道に通じているというものであった。そしてそのことを欧米人に伝えようとした作品が英文『武士道』である。この作品は各国語に翻訳されている。
(日本最初の国際人としての経歴)
1900(明治33)年 英文『武士道』初版出版
1901(明治34)年 台湾総督府民政部殖産局長に就任
1911(明治44)年 第1回日米交換教授として渡米
1919(大正8) 年 国際連盟事務次長就任
1921(大正10)年 バルト海のオーランド島帰属問題解決 チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加
1926(大正15)年 国際連盟事務次長退任
1929(昭和4)年 太平洋調査会理事長就任
1933(昭和8)年 カナダのバンフにて開催の第5回太平洋会議に出席 ビクトリア市にて客死
(教育者としての経歴)
また国際人以外にも、教育者としても活躍した。
1891(明治24)年 札幌農学校教授就任
1894(明治27)年 札幌に遠友夜学校を設立
1899(明治32)年 日本最初の農学博士の称号を得る
1903(明治36)年 京都帝国大学法科大学教授
1906(明治39)年 法学博士の学位を得る 第一高等学校長に就任
1909(明治42)年 同大学法科教授兼任
1917(大正6)年 拓殖大学第二代学監に就任
1918(大正7)年 東京女子大学学長に就任