アフガン戦争18
出典: Jinkawiki
アフガン戦争 1838~20世紀初頭まで続くアフガニスタンへのイギリスの侵略戦争。 19世紀に入り、ロシアが南下政策の一環として二度にわたるイラン=ロシア戦争でイランに進出し、さらにアフガニスタン方面にも勢力を伸ばそうとしたことに対して、イギリスはインド権益を防衛する目的で、アフガニスタンを侵略し、アフガン王国がそれに抵抗して起きた3次にわたる戦争。第2次の結果、1879年にイギリスの保護国となり、1919年の第3次で独立を回復する。
第1次(1838~42年) ロシアの進出を警戒したイギリス(1837年からヴィクトリア時代)がアフガニスタンを侵略し、カーブルを占拠するが、反英闘争が起こりイギリス軍は撤退した戦争。1837年にイランのカージャール朝軍がロシアの支援(というより命令)を受けてアフガニスタン西部を侵略したことに危機感を持ったイギリスが、1838年にインド総督府軍を送り、カーブルにはいる。これによってイランにアフガニスタンの独立を認めさせた。しかしイギリス兵のアフガン女性への暴行などが続き、1841年、激しい反英活動が起こり、イギリス軍が撤退。その途中でインド兵、一般人を含むイギリス軍が、アフガン軍の追撃により全滅するという敗北を喫した。42年にはイギリス軍が捕虜奪還のため再出兵し、カーブルを破壊した。 その後、ロシアは1853年のクリミア戦争に敗北し、イギリスは1857年のインド大反乱などインドでの民族抵抗に手こずっため、一時的に両国ともアフガニスタンに余力を割くことができなかった。イギリス国内ではアフガニスタンへの積極策と消極策が対立していたが、1874年に保守党のディズレーリ内閣が成立し、積極外交が採られることとなった。一方ロシアの中央アジア進出も活発になり、中央アジアのブハラ、ヒヴァ、コーカンド三国に勢力を伸ばし、さらに1877年からオスマン帝国との露土戦争を開始した。
第2次(1878~80年) イギリスがアフガニスタンを保護国化した戦争。1878年にはロシアがアフガン王国に対し軍事同盟の締結を要求したことに対し、イギリスはカーブルへの外交使節の常駐を要求した。アフガン王国がそれを拒否したことを口実に、イギリス軍は再びインドから軍を進め、アフガニスタンに侵攻した。1879年、アフガン王国は外交権をイギリスに渡し保護国となって屈服した。しかし、アフガン兵の反乱部隊によりイギリス使節団が殺される事態となり、イギリスはただちに報復のため軍隊を増派した。ところが1880年7月のマイワンドの戦いではアフガン軍に敗れる(19世紀中のイギリス軍の唯一の敗北)結果となった。本国ではグラッドストーン自由党内閣に代わって撤退を命令、イギリスは再び不名誉な敗北となった。 その後、イギリスはアフガニスタンの直接統治を諦め、ロシア、イランとの国境交渉を進める。1904年の日露戦争でロシアが日本に敗れたことを機に、ロシアとイギリスの協議が進み、1907年に英露協商が成立してロシアはアフガニスタンをイギリスの勢力圏と認め、さらに第一次世界大戦中にロシア革命が勃発してロシア帝国が崩壊したため、アフガニスタンをめぐるイギリスとロシアの対立は終わる。
アフガン戦争(第3次) 1919年、アフガン王国がイギリスと戦い独立を承認させた戦争。 第1次(1838~42)、第2次(1878~80)のアフガン戦争でイギリスの保護国とされたアフガン王国が、1919年にイギリス軍と戦い、独立を承認させた戦争。アフガン王国はイギリスが第一次世界大戦後で疲弊し、インドの独立運動で苦況にあることに乗じて、インドに侵攻し、1ヶ月にわたる戦闘の結果、講和を成立させた。1919年8月にアフガニスタンの外交権回復をイギリスが認め、アフガニスタンが独立国であることが国際的にも認められた。 しかし、アフガン王国の悲願であったインド領内のパシュトゥーン人居住地域(インダス川西岸)の領有は認められず、第二次世界大戦後はパキスタンとの間で対立が起きる。イギリスが戦闘では敗北したわけではないのにアフガンニスタンの独立を認めたのは、当時インド国内の独立運動が激化しており、財政的にも苦しくなっていたので、インド植民地の維持を優先させる必要があったからである。