マルコムX3
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
マルコムX(Malcolm X,1925年5月19日-1965年2月21日)は、1960年代におけるアメリカの黒人差別反対運動(公民権運動)で、大きく活躍した人物である。
___マルコムXの誕生
マルコムXはアメリカ中部、ネブラスカ州オマハで生まれた。本名をリトル(Malcolm Little)と言い、5歳の時に父を亡くし、母親も間もなく病気になった。父の死について、警察は「自ら命を絶った」と見解したが、マルコムは白人に殺されたと考えていた。幼少期には白人ばかりの学校へ行ったりと、白人嫌いというわけではなく、成績も優秀で、弁護士を目指していたほどだった。しかし、黒人であるがゆえに将来の道を閉ざされ、以来白人を避けるようになる。失望した彼はやがて裏社会の一員となり、強盗を計画。1946年2月、彼は21歳で刑務所に入ることとなった。刑務所に入ったあとも彼は通信教育などを受け語学を学ぶ。入獄から2年経った1948年に兄のフィルバートから手紙が届き、ネイション・オブ・イスラム教団(通称NOI)を知る。兄弟たちに教化された彼は獄中よりNOIの指導者であるイライジャ・ムハマドに手紙を送り、激励をもらっている。1952年、仮釈放となった彼はイライジャ・ムハマドと会い、そのままNOIに入信。このときイライジャ・ムハマドより「X」という名前をもらう。
___ジョンソン事件
1957年、ある路上で起こった黒人同士の喧嘩。NOIのメンバーであったジョンソン・ヒントンは、偶然その場に居合わせていただけの野次馬であった。しかし駆け付けた警官に警棒で殴られ、何故か彼は逮捕された。教団員を通じて事件を知ったマルコムは ジョンソン・ヒントン逮捕からわずか30分以内という、驚くべき迅速さでNOIのメンバー50人を召集し、ジョンソンが連行された警察署の前に横一列に並び、ジョンソン・ヒントンが適切な治療を受けているかと警官に尋ねた。しかし、警察がマルコムたちにジョンソンを引き合わせた時、彼は血まみれで意識も朦朧としている状態であった。マルコムたちは、ジョンソンを直ちに病院に連れて行くよう要求した。その結果、ジョンソンはハーレム病院へ移されることになる。再び病院の前に並んだ時には、メンバー50人の後ろに大きくふくれあがった群集が後をついてきていた。警察署と病院の前で、群れをなす群衆。これがメディアに大注目された。これがジョンソン事件の全貌である。これを期に、世にマルコムXが広まる端緒となった。
___NOIからの離脱
1960年代に入り、黒人による公民権運動はキングを中心として盛んになっていった。しかし白人からの分離を提唱していたNOIの指導者、イライジャ・ムハマドは白人との融合を伴うキングの公民権運動を嫌い、NOIでは運動への参加が禁止されていた。
現実的な政治感覚に優れていたマルコムは、この方針に不満を抱いていた。そんな最中、1963年にケネディ暗殺事件が起こる。NOIには取材陣が殺到、そしてマルコムは記者に対し次のように述べる。
「John F. Kennedy was a case of chickens coming home to roost.」
マルコムは「アメリカ社会に満ち満ちた憎しみが白人にも跳ね返ってきてしまった」と答えたつもりであったが、この言葉には「人を呪わば穴二つ」というニュアンスがあり、マスコミに失言として叩かれてしまう。
NOIはマルコムの政治的な動きを以前から懸念していたため、マルコムを活動禁止の処分にした。これをきっかけにマルコムはNOIから去ることとなった。
___マルコムXとキング牧師
NOIを去ったマルコムは、1964年3月、ワシントンでキング牧師との接触を果たした。わずか1分間という短い時間に彼らは互いの行動を注意しあったとされている。マルコムXは、積極的な非暴力的政治活動を展開するキング牧師を、キング牧師は、暴力を否定しない人種差別撤廃運動を主張するマルコムを、互いに取りあげた。しかし、活動の方向こそ違うが目指す場所は同じもの。二人は互いに大きな尊敬の念を抱いていた。
___最期
1965年2月21日、二日後にはキングとの対談を控えていた。彼はニューヨークで講演中にNOIのメンバーによって暗殺される。報せを受けたキングは次のように述べた。
「マルコムもまた、社会の人種的不平等、抑圧、非人道的行為により生まれた多くの犠牲者の一人だった。私たちは将来の偉大な指導者となったであろう人物を失ってしまった。」 彼の40年に渡る激動の人生はこうして幕を閉じた。
___参考文献
『完訳マルコムX自伝』マルコムX著/濱本武雄訳/中央公論新社
『マルコムX』荒このみ著/岩波新書
HN/立月(たつき)