カーネルサンダース2

出典: Jinkawiki

2020年1月30日 (木) 15:06 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

カーネル=ハーランド=サンダース (1890〜1980年)

●転職を続けた半生

 早くに交を亡くしたサンダースは、家計を助けるため10歳から農場で働きだした。その後、鉄道の機関士や保険外交員など、40種類もの職を転々とした末、30代後半になってガソリンスタンドを開業。「他の人に一生懸命サービスする人が、最も利益を得る人間である」という信念のもとに、進んで車の窓をふいたり、タイヤをチェックしたりと徹底したサービスでス タンドは繁盛した。しかし、1929年、世界恐慌のあおりを受けて倒産してしてしまったのである。


●レストランの成功

 1930年、新たにガソリンスタンドを始めたサンダースは、まもなく、その片隅に6席ばかりの食堂「サンダースカフェ」を開業する。サービスの良さとおいしい食事が評判を呼び、たちまち本格的なレストランに成長、1935年にはケンタッキー州から「カーネル」の名誉称号を贈られるほどの成功を収めた。また、このころ始めた慈善活動は、 彼のもう一つのライフワークとなったのである。  当時から特に入気を集めていたのが、サンダースの作るフライドチキンだった。これをもとに研究を続け、1939年、11種類のスパイスと圧力釜を使ったオリジナルフライドチキンを完成。この年、レストランを火事で失うという不幸に見舞われながらも、その後147席の大レストランとして再開し、順調に発展させていった。


●65歳からの再起

 ところが、60歳を迎えた矢先、またしてもサンダースを苦難が襲う。新道の建設で車の流れが変わり、来客数が激滅したのである。みるみる売り上げは落ち込み、65歳で店を手放した後には、フライドチキンの調理法以外、財産と呼べるものは残っていなかった。  しかし、サンダースはくじけなかったのである。その調理法を教える代わりに、チキン1羽につき5セントをもらうというフランチャイズ方式のビジネスを始める。フランチャイズになじみがなかったため、車に圧力釜とスパイスを積んで各地のレストランを回り、その場で揚げて食べてもらうという売り込みも初めは実らず、しばしば軍で寝泊りすることもあったりしかし、第1号契約者で、ケンタッキーフライドチキンの名付け親でもあるピートの協力もあって次第に軌道に乗り、専門のファーストフード店も次々に現れ始める。  こうしてサンダースは、1963年、73歳で、店舗数600店以上というアメリカ最大のフランチャイズーチェーンを築き上げたのである。翌年、権利を譲って経営から身をひきましたが、その後も世界中の店を回って自ら調理法を教え続けた。


●フランチャイズ方式とは

 商標や商売の知識を提供する代わりに、加盟店から契約料や売り上げの一部を受け取るという店舗展開方式。ファーストフード店やコンビニエンスストアなどが代表的。


●日本で生き続けるサンダースの味

 日本にサンダースの味が伝わったのは、1970年の大阪万博での出店が最初である。その成功を受けて、名古屋に第一号店がオープンする。日本初のファーストフード店が誕生した。当時の日本人にとっては、フライドチキン自体が未知の食べ物だったこともあって最初は伸び悩んでいたが、次第に受け入れられ、現在では日本だけでも1100店舗以上に成長してる。味とサービスにこだわり、マニュアルが守られていない店には契約を取り消すこともあったサンダース。3度の来日を果たした彼は、「自分のやり方を最も忠実に守っている、日本のフライドチキンが1番気にっている。」という言葉を残した。


参考文献 目でみる 世界人物百科 2 芸術・文学人物事典 日本図書センター

TIT0804


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成