聖徳太子

出典: Jinkawiki

2008年10月19日 (日) 19:44 の版; 最新版を表示
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 1.聖徳太子の誕生

   聖徳太子は、厩戸豊聡耳皇子・上宮太子ともいう。574年に用明天皇の皇子として生まれ、母は穴穂部間人皇后である。

 2.摂政となる

   593年、叔母にあたる推古天皇が即位すると、太子は天皇の政治を助ける摂政となった。摂政となった太子は、親戚にあたる大臣蘇我馬子と協力して新しい政治を行い、国の統一をはかろうとした。

  3.聖徳太子が行った政策

   (1)冠位十二階を定める

 これまで豪族たちは、家柄によって朝廷の役についていた。太子は、このような方法をやめて、才能や手がらのあった人物を役人に取り立てようと冠位十二階の制度を設けた。それは、6つの位をそれぞれ大・小に分けたもので、冠位は個人に、そして、その人一代に限って与えられた。

  (2)十七条の憲法を定める

 さらに太子は、天皇中心の政治の方針と、役人に政治にあたる心構えを示すため、仏教などの考えを取り入れて、604年に十七条の憲法を制定した。第一条で、人の和をたいせつにとして豪族の争いをいましめ、第三条で、天皇の命令には従うようにと述べて、天皇を中心とする中央集権国家をつくろうとするものであった。

  (3)遣隋使を送る

 中国では、国々の争いが続いていたが、6世紀の末に隋が統一を成し遂げ、皇帝を中心とした強力な国家をつくっていった。太子は、中国の進んだ文化や政治のしくみを取り入れるため、中国に使いを送ろうと考えた。607年、太子は対等の立場で国交を結ぼうと考えて、小野妹子を隋に送ることにした。これによって、5世紀に倭の五王が中国に使いを送って以後絶えていた、中国との国交が回復することになった。

   (4)法隆寺を建てる

 仏教をあつく信仰した太子は、学問所のあった飛鳥(奈良県)に法隆寺を建てた。法隆寺に伝えられる仏像や工芸品は、主に朝鮮からの渡来人の子孫などによってつくられたが、中国・朝鮮さらに遠くインド・ギリシャなどの文化の影響もみられる。

   4.一度燃えた法隆寺

 法隆寺は、670年に一度家事にあって、現在あるものは、その後に再建されたものである。それでも、現在残っている世界で最も古い木造建築であることに変わりはない。なお、1993年に法隆寺は世界的に保護すべき文化遺産として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)から「世界文化遺産」に指定された。


参考文献

 数学研究社 「人物で分かる日本の歴史」


  人間科学大事典

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