徳川家定

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徳川 家定とくがわ いえさだ、文政7年4月8日 (旧暦)|4月8日(1824年5月6日)- 安政5年7月6日 (旧暦)|7月6日(1858年8月14日))は江戸時代の江戸幕府第13代征夷大将軍である。将軍職嘉永6年11月23日 (旧暦)|11月23日(1853年12月23日) - 安政5年7月6日(1858年8月14日)。第12代将軍徳川家慶の4男、母は側室の跡部正賢の娘。正室は鷹司政通の娘、一条忠良の娘、島津斉彬の養女の娘天璋院篤姫ほか側室。幼名は政之助。家祥。


経歴

江戸城に生まれる。1841年(天保12)に祖父、徳川家斉が死去すると、将軍家慶の世子とされ、1853年(嘉永6)に30歳で第13代将軍に就任する。同年に来航したアメリカのペリー提督が約束通り翌年7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は日米和親条約に調印した。1857年(安政4)には、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。幕政は老中阿部正弘によって主導され、その後大老に就任した井伊直弼らが指揮した。紀州藩の徳川慶福(徳川家茂)を将軍後継に推す南紀派と、一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派の対立では、慶福の後継を決定する。 こうした難局にもかかわらず家定は就任直後から後継問題が浮上するほど体が弱く、一説には脳性麻痺だったとも言われているが、将軍として指導権を示すことが出来なかった。1858年に死去、享年34。 家定は、庭の鳥を追いかけるなどする子供のような将軍であり、煮豆やふかし芋などを作っていた為、松平慶永(春嶽)から「イモ公方」などと呼ばれていたという。また、ハリスと引見した際、頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという異常な行動もとったといわれている。 その死は慶福が後継ぎに決まった直後であった為、一橋派が家定を毒殺したのではないか、という説や、逆に南紀派に毒殺されたという説がある。 墓所は東京都台東区上野の寛永寺。法名は温恭院。

出典

http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%9A&action=edit http://www.uraken.net/rekishi/reki-tokugawa13.html 百科事典マイペディア 日本システムアンドサービス 大辞泉 小学館


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