参勤交代
出典: Jinkawiki
徳川家光は1635(寛永12)年、武家諸法度(寛永令)を発布し、諸大名に法度の厳守を命じた。その中で、大名には国元と江戸とを1年交代で往復する参勤交代を義務づけ、大名の妻子は江戸に住むことを強制され、1年おきに在府(江戸)と国元で過ごすことを義務づけた。 規定では在府(江戸)1年・在国1年であるが、関東の大名は半年交代であった。
参勤交代のはじめ
大名の参勤交代は、1602(慶長7)年に加賀の前田利長が、証人(人質)として江戸に送られていた母を訪ねて出府した事がはじまりだと言われる。1603(慶長3)年、徳川家康が、全大名に対する正当性を得るための征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開くと、大名たちの江戸参勤が広く行われるようになっていった。 この国元と江戸を往復する大名と家臣団の士卒が組む行列が、いわゆる大名行列である。橋本貞秀の「東海道高輪風景」や歌川広重の「東海道五拾三次之内」では大名行列の風景が描かれている。大名は軍旅の形をとり、たがいに権力を誇示しようとしたため、人数も次第に多くなり、服装も豪華になる傾向にあった。例えば、1万石程度の大名でも100人を超える行列となる。100万石大名の加賀前田家などでは、綱紀時代には行列の人数が4000人にものぼったといわれる。加賀藩では約1000人の藩士が江戸に定住しており、家族を合わせると約4000人である。したがって、藩主が江戸に滞在中は約8000人が江戸にいたことになる。加賀藩の江戸屋敷は4箇所あり、総面積が32万8000坪(約108ヘクタール)あり、東京ドームの約23個分という、江戸城とほぼ同じ面積を所有していた。 このように大名の数が年々増え、華美に流れるようになったために、8代将軍吉宗の1721(享保6)年、行列の人数を制限した。
大名の負担
江戸までの距離が1番遠い薩摩の島津氏の場合は、1801(享和元)年の参勤交代の費用は約1万5000両で、同藩の年間支出の約5パーセントを占めたといわれる。肥前の鍋島氏なども片道260両もの旅費がかかるため、藩の財政が窮乏し、多額の負債を抱え込んだといわれる。このように大名に多くの負担がかかったものの、これによって街道や宿場などの交通施設が整備され、物資や文化の交流が生まれた。
《参考・引用文献》 解説日本史 石井進、五味文彦、笹山晴正(ほか11名) 山川出版社 図説江戸2 大名と旗本の暮らし 平井聖監修 学習研究社