摂関政治2
出典: Jinkawiki
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外戚政策
外戚政策とは、娘を天皇の后にし、生まれた皇子を天皇につけ、天皇の外祖父として摂政・関白の地位について権力を握ることでる。藤原不比等以来、藤原氏はこの方法で一族の栄華を築いていった。
母方の一族が力を持つのは、古代から母方の家系が重視されていたためである。貴族社会では、一夫多妻がふつうで、生まれた子どもは母方の家で育てられた。天皇の場合は宮中で育てられたが、皇子を皇太子につけたり、天皇に即位させたりするためには母方の祖父、つまり外祖父や実家からの援助が必要であった。
外祖父は皇子が幼いうちに皇位につけ、成人するまでは摂政として政治を行い、成人してから後は関白として政治を補佐する。公卿会議で決まる前に、いろいろと意見が出せるというのが強いのである。摂政・関白は、役人の任命権などを手に入れる。そして一族を要職につけて、勢力をのばしていくのである。
他氏排斥
藤原氏は薬子の変(810年)以降、次々と他氏を排斥して天皇家に接近していく。最も典型的な承和の変(842年)は、仁明天皇の次は誰に、という争いである。本来なら、皇太子・恒貞親王なのだが、恒貞親王は台頭著しい藤原北家と人脈がなかった。これに対するのが結果として次の天皇となった文徳天皇である。文徳天皇の皇后・明子は、薬子の変に勝ち、北家台頭の端緒を開いた藤原冬嗣の子である良房の娘。つまり生まれた子どもに対して良房は外祖父となり、その子が天皇に即位する。藤原氏にとって有利な人物が天皇となるわけである。
他氏排斥とは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐことである。承和の変において伴健岑や橘逸勢など非・藤原氏、また藤原式家を失脚、応天門の変(866年)では大納言・伴善男を伊豆へ流罪、昌泰の変(901年)では菅原道真を大宰府へ左遷、安和の変(969年)では左大臣・源高明を左遷させた。
全盛期
摂関政治の全盛期は、藤原道長・頼通父子の時代である。道長が詠んだ「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」(藤原実資『小右記』)という歌は有名である。また頼通は摂関の地位に約50年間就いた。頼通が造営した平等院鳳凰堂は藤原氏全盛時代の栄華を象徴している。
衰退
摂関政治の前提となるのは、まず娘の誕生と、彼女が美しく、また教養を身につけた魅力的な女性に育つことであった。そのために貴族たちは和歌・琴・琵琶・裁縫などの教育に力を入れるために、紫式部や清少納言といった優秀な家庭教師をつけた。
しかし、見事娘が天皇の后になったとしても、天皇となる皇子を産まなければならない。藤原頼通が絶頂期にありながら、その息子の時代に下り坂になっていった原因もそこにあった。
1068年に即位した後三条天皇は藤原氏と外戚関係を持たない約170年ぶりの天皇であった。そのため藤原摂関家の抑制に努め、藤原氏の経済基盤を崩すことにも着手した。その後、後三条天皇の意志を継いだ白河天皇は上皇となり、院政を開始した。この院政により摂関政治は終焉した。
参考
須藤公博 著 「まるわかり日本史」 永岡書店
前澤桃子 著 「図解雑学 日本の歴史」 ナツメ社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E9%95%B7