マルティン=ルター

出典: Jinkawiki

2009年1月7日 (水) 23:22 の版; 最新版を表示
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概要

ルターはドイツの宗教改革者、牧師、説教者、神学者である。1483年11月10日にドイツのアイスレーベンに生まれ、1546年2月18日に生まれた土地で亡くなる。1517年に宗教改革を起こし、これが発端となって他国へも広まっていった。それまでのカトリックから、プロテスタントの流れを作った人物とも言える。さらに、現代ドイツ語の祖形を作った人物でもある。

生い立ち

父はハンスで母はマルガレーテという。マルティンは、5歳の時にマンスフェルトのラテン語学校に入学。当時ラテン語は、協会や行政等の公用語であり、上を望むには必要条件と考えられていたという。14歳の時、大都市であったマグデブルグの学校に移り、アイゼナハの学校でも学んだ。またルターは農民の出で、炭鉱で働き溶鉱炉経営者となった父ハンスの期待を受けてドイツのエルフルト大学で法律を学んだ。22歳の時には、シュトッテルンハイムの付近で落雷に遭う。その恐怖から誓いを立てて修道士となるため、アウグスティヌス修道院に入り、神学を学んで29歳の時には神学博士となり、その後ヴィッテンベルグ大学の聖書教授となった。

宗教改革

1517年、ルターは宗教改革を行う。これには贖宥状(免罪符)の問題があった。カトリック教会は、罪を告白し悔い改めた者に、完全な許しのために一定の刑罰(償い)を課した。それを金銭の喜捨で免除できるとしたのが贖宥状(免罪符)である。ところがそれを購入すれば、罪そのものが許されると宣伝されて売られるようになった。実際のところ何故免罪符の販売が行われたかというと、このときのルネサンスの保護者であった教皇レオ10世が、サン-ピエトロ大聖堂改築の資金調達を補うための財源を必要としていたからだという。ルターはこうした考えと実際に対して厳しく反対した。当時、ヴィッテンベルグ大学の教授となっていた彼は、1517年の10月31日に、この教会の門に「95か条の論題」を張り出した。彼は、善行や儀式によって魂の救いを得ることは出来ず、悔い改めと福音の信仰によってのみ人は救われると主張した。しかしローマ教会と論争する過程で、ルターは教皇の権威や聖職者の特権を否定したため教皇庁から破門された。ローマ・カトリック教会と帝国による攻撃と迫害にも関わらず、ルターの投げかけた宗教改革の精神は、ドイツ各地だけではなく、北欧の国にまで広まっていった。また彼は、大学での聖書講義と著作活動と出版を63歳の生涯にわたり続けていった。


参考文献 http://www005.upp.so-net.ne.jp/kozi2/topics/luther.htm http://www.wjelc.or.jp/office/luther.htm 詳解 世界史  三省堂 最新世界史図説 タペストリー  帝国書院


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