大名
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
大名(だいみょう)とは、大名主より転じた語であり、大いに名のとどろく者のことを指す。対になるのは小名である。平安時代末・鎌倉時代、大きな名田を所領としていた在村領主であり、もともと地方で勢力をふるう者のことを言った。そのうち、武家社会において、多くの所領や部下を所有する武士を意味する語となった。南北朝・室町時代には守護職が領国支配を強め、守護大名となった。戦国時代には、さらに広域にわたる支配領主として、強固な領国支配を確立した大身領主が現れ、大名分の国人や戦国大名と呼ばれている。江戸時代には一万石以上の所領を幕府から与えられ、将軍と直接の主従関係にあった武家を示す言葉となった。領国の統治には独立の権限が与えられるが、武家諸法度によって厳しく統制され、参勤交代・軍役などの義務を負わされていた。徳川将軍家との親疎関係により、親藩・譜代・外様に区分され、また官位や江戸城での伺候の席など、大名ごとに決められた家格があった。一般に三百諸侯といい、幕府安定期には260~280家が存在した。一万石未満の武士のうち幕府直属の武士を直参という。なお、大名はその封建領主と性格が中国の諸侯と性格を共有することから、諸侯に準えて大名諸侯とも称された。
江戸時代の大名
江戸時代の大名は、家格・官位・石高・役職・伺候席によって序列が決められた。また、徳川将軍家との関係によって、一族の家門大名(親藩、親藩大名)、主に関ヶ原の戦い以前に徳川家の家臣だった譜代大名、関ヶ原の戦い前後から家臣となった外様大名に分類される。
親藩は、徳川家康以降、将軍家の子弟で大名に取り立てられた家の総称である。初代将軍家康は、将軍家が断絶した場合の血脈の維持や、全国の大名統制への監視、および幕府への補佐への意味も込めて、将軍家同様に徳川姓を名乗ることが許された御三家を設置した。9男の義直を尾張藩、10男の頼宣を紀州藩、11男の頼房を水戸藩に封じた。つまり、親藩は主に尾張、紀伊、水戸の三家など徳川氏一門の大名を指す。他にも、家康系の越前家、秀忠系の保科家、家光系の甲府・館林家、吉宗系の田安・一橋家、家重系の清水家などが挙げられる。
さらに歴代にわたり徳川将軍家の草創期を築いた譜代の家臣を譜代大名として置いて、幕府の軍事力を確保するとともに幕府の大老はじめ老中を中心とした重要な役職につけ、幕政を支えた。譜代大名は比較的石高は低く、譜代筆頭井伊氏の彦根藩が突出した35万石の大封を得ている他は鳥居氏や榊原氏、本多氏、小笠原氏などが比較的大封を得たが、江戸時代通して10万石以上を保った譜代大名は酒井氏、阿部氏、堀田氏、柳沢氏、戸田氏をはじめわずかである。権力と軍事力の分離のためにこのようになった。また、幕政に参画したためかえって政争や事件に巻き込まれて取り潰された家も多いようだ。しかし、外様であっても「願御譜代家」、「御譜代並」と呼ばれ、譜代格として扱われた家もあった。
外様大名は関ヶ原以降に従った大名であり、関ヶ原では徳川家に対抗した家も多い。それだけに幕府の警戒は強く、隠密による諜報活動を積極的に行い、不正や謀叛の恐れがある場合は、厳しく改易に処した。代表的な外様大名としては、加賀百万石として有名な前田氏の加賀藩、鎌倉時代以来の名家である島津氏の薩摩藩や伊達氏の仙台藩、黒田氏の福岡藩、浅野氏の広島藩、毛利氏の長州藩、上杉氏の米沢藩、鍋島氏の佐賀藩、細川氏の熊本藩、池田氏の岡山藩と鳥取藩、蜂須賀氏の徳島藩、土佐山内氏の土佐藩、佐竹氏の秋田藩といった国持大名が多い。大きな所領を持つ大名もあったが、原則として幕政に参画することができず、封土も僻遠の地にある場合が多かった。江戸初期には幕府の廃絶政策は主に外様大名に向けられ、越後堀家、肥後加藤家、安芸福島家、会津加藤家などがその標的となった。
また、大名の格式として領地が1国以上またはそれに準ずる石高であるものを国主、城をもつものを城主(城主格)、城をもたないものを無城といって区別し、大名が江戸城に参勤した際に詰める部屋も格式に応じて分けられた。 大名は武家諸法度や参勤交代の制度によって、幕府から統制を受けた。その他、御手伝と称する課役や江戸時代末期には海岸防備を命ぜられることもあり、大名は常に経済的にも苦しかった。
参考文献:詳説日本史B(山川出版社)、地図・資料・年表「新詳日本史」(浜島書店)、広辞苑、ウィキペディア